カフェ〜その機能と本質〜

結論から言えば、
カフェとは、「お金を払ってお茶を飲むところ」なのではなく、
「お金を払って自分を見せるところ」なのである。
そこで売られているのは、「モノ」ではなく「空間」なのである。つまり、そこはある種の「お立ち台」のようなものなのだ。


カフェに入る人間は、


「キャラメルフラペチーノライトのショートにホイップを。」
キャラメルマキアートのトールに1ショット追加で。」
「抹茶クリームフラペチーノのトールに1ショット追加、あとストロベリーパフを。」


などという合理性のかけらもないような嫌味ったらしいくらいに不必要で冗長な呪文を、一言もかまずによどみなくとうとうとスマートに唱えることができるのだという自らの姿を、他人に見せ、自分に見せ、そして、コーヒーを飲むのではなく、「カフェにいる自分」というイメージを買うのである。


「呪文を唱えること」


それこそがカフェにおける最初にして唯一の究極的な目的なのであり、いつどこで何をどのように注文するかなどということによる差異は、まったく意味をなさないのである。
(ただし、バナナ一本を単品で食した私のような場合は除く。これが毒男クオリティ。)
また、それらの出所不明のカタカナ言語は、それを介して店員との共犯関係を築くものであると同時に、周囲にいる他の客との同一世界観の共有を背中で確認し合うための合言葉ともなっているのである。


「なぜ人はカフェに行くのか」についての答えは出た。
では、次に、「なぜカフェに行く人間には女性が多いのか」という疑問である。


うまいコーヒーが飲みたければ名のある喫茶店に行けばよいのである。
人知れず取り残されたような喫茶店に入ればよいのである。
にもかかわらず目もくれず、まるで灯火に群がる蛾のように、女性が行くのはカフェである。
なぜか。
それは、女性というものが圧倒的に他人の視線によって成り立つ存在だからである。男性に比して、その存在におけるまなざしが織り成す割合が圧倒的に多いからである。
女性とは常に視線を差し込まれた存在であるといってもいい。
ならば、
その視線の網の目を物理的に構成したカフェという空間に女性が集まることも、理の当然といえるだろう。
見られることでこそ女性が女性たるという社会的な要素は、見せること見られることに対するアドバンテージを女性に与えてきた。(もちろん、それと同じくらいの不利益も)
だからこそ、自分を見せる、自分が見られる空間として登場したカフェに、「自然と」女性が多く集まったのである。
カフェとは、そもそも「女性」の一部だったのである。




だからまあ、毒男がホイホイいくような場所じゃないよねってことナンですが。
スポットをはずした薄暗い照明の下で、コーヒーをブラックですするのが毒男の正当なスタイルですよね。
ね!