「笑顔で殴り合える技術」

パタリロ』が好きです。*1
というのはさておき、
ブログでの論争だとか、コメントだとかの様子を見ていると、どうにもあの「なんだとはなんだとはなんだとはなんだ!」というセリフが頭に浮かんでならない。


相手の意図を酌めずに、または文脈を読み取れないままに反応し、そしてそのまま、相手の意図を酌もうとも、文脈を読み取ろうともせずに判断、解釈をして、一方的に絶縁宣言をするといったような事態が、事の大小を問わず、あちこちで起こっている。
少なくともそんなような気がしてならない。


それは、本当に不毛なall or nothingだ。


なぜ「留保」という態度が取れないのだろうかと、不思議に思うようなところもあるが、さて、高校時代の自分を振り返れば、やはりそんな態度をとっていたような気もする。
高校くらいまでだと、少しロジカルなことを考えても、それを話すような相手もいないがために、――そんな話をすること自体がイタイ事だとみなされるがために――、結局独りよがりな断定に落ち着きがちである。
――「バカめ!俺は天才だぁ〜!!」とでもいうような。


それがいくらか解消されるのが大学という経験なのであろう。あるいは、社会という経験か。
とはいうものの、それらの経験にも質の濃淡や頻度の多寡があり、やはりなかなかこの「笑顔で殴り合える技術」を身に付けるのは難しい。
これは、自分だけが身に付けていたのでは成り立たない技術だというところがミソだ。
最終幕での夕日を背にした硬い握手が控えていることを知った上で殴りあう。これこそが、「笑顔で殴り合える技術」の真髄なのだが、はたしてその実現のためには、それが共通認識として広まっていなければならず、あるいは共有していなければならず、現在各地で起きているような偶発的紛争や部族間衝突は、そう簡単になくなりそうもない。
――「ヒャッホーゥ!「祭り」だ「祭り」だ〜!「燃料」もたっぷりあるぜ〜!!」とでもいうような。


もし、この「笑顔で殴り合える技術」を少しでもブラッシュアップしていこう、広めていこうというのが、「モヒカン族」なのだとすれば、ここはがぜん応援すべきだろう。
間違っても一子相伝暗殺拳として、一撃必殺の論破術としてのみ大成しないことを願うばかりだ。
――「「詭弁のガイドライン」を突いた。お前はもう死んでいる!」とでもいうような。




彼らの正体が、実は、カウンターについた拍子にグラスの破片でケガをしたと言って、「痛ぇよ〜!!」と叫び暴れまくりたいだけのものだった、というのでなければ、いいのだが。




*2

*1:パタリロ西遊記』はイマイチでしたけど。

*2:しかし、この書評にまつわる問題を見るに、事はアマチュアだけの問題ではなく、プロの書き手にまで及んだ、日本人の言語能力の問題なのかもしれない。