誰が人を「負け組」へ扇動するのか。

「負け組」への恐怖感が「負け組」をつくると言おうか、いや、より定義的に、「概念」が「現実」をつくる、とでも言おうか。


「恐怖」を煽られた人間がそれをなんとか回避しようと試行錯誤した挙句、返って「恐怖」にからめ取られ身動きが取れなくなる。
それが、今の社会問題の大きな原因ではないのだろうか。ひきこもりにせよ、NEETにせよ、失業にせよ、フリーターにせよ、パートにせよ、派遣にせよ、契約にせよ、ミスマッチにせよ、非婚晩婚にせよ、少子化にせよ、自殺にせよ。
すべて先立つ恐怖感がその根底に流れている。


これに対し、声の大きい人間というのは、頻繁に「男とは*1本来、競争を好む生き物なのだから、恐怖感・危機感を煽ったほうが健全な社会が作られるはずだ」と好んで口にする。
が、
そういう人間はほとんどの場合、社会問題に対して批判的な考察を加える能力に欠陥を抱えていることが多い。


それは、彼らが自らの生きる環境を「普遍的」なものであると自然視する、自明視することに発している。
――ビジネスエリート然り、文化人然りである。*2


彼らの意識の中には、持っていて当然、知っていて当然、という領分があまりにも多すぎる。そもそも、持たないこと、知らないことを前提として思考すること、語ることが、恐ろしく不得手なのだ。


その結果、どのような言説が彼らの口から生じるかといえば、情感に堕した、一見目新しい、耳障りのいい、そしてまったく中身のないキレイ事や、寝言の数々である。


自らの知覚が及ばない物に対して彼らが発するのは、その問題の状況を現実的に想像したものではなく、多分に美化し多分に叙情化した、自らが触れて心地よい程度の「モンダイ」である。


この両者*3に親和性が高いことは、各種メディアの現状を見るに言わずもがなであろう。有財の者、有識の者、もてる者は、もたざる者への視線を持たない。*4


つまり、彼らはこの「恐怖」を知らないのだ。
「負け組」と呼ばれることが、人間にいかなまでの暗澹たる未来図を刻み付けるのかを。
この身に「恐怖」を刻まれることが、いかな障害をもたらすのかを。


文化人はこう言う――「私も若い頃は苦労した」。
だが、その「過去の苦労」がなぜ無批判に「現在の恐怖感」と同一視されるのか。それに対して、彼らが批判的な考察を加えることはほとんどない。


ビジネス啓発書では、「恐れを知らないこと」がビジネス勝者の必要条件のように謳われる。
が、それは社会的弱者への無関心と同義である。その啓発が安っぽい物であれば、より有体により露骨に「差別と偏見を胸に抱け!」とささやく。いや、声高に叫んでいる。


しかし、その質を同じくする、とあるコーナーには、その「勝利」をつかんだ果てに感じた精神的荒廃、そこで初めて気づいた自らの残酷さを懺悔告白し、さも悟ったかのような言葉を並べる書籍が並んでいる。
――そう、「恐れを知るな」といった同じ口が今度は「恐れを知れ」というのだ。


だが、そこで語られる「恐れ」はあまりにも非現実的だ。「仕方がなかった」のひとことで、さも悔い改めたかのように振る舞い、あるいは、宗教的な物に目覚めて見せ、それですべてが解決したかのような顔をする。
「恐れ知らず」に生きた時間が、いかな「恐怖」と実害を他人に与えてきたかを、「気づいた」というジェスチャーだけで、さもそれで「なかったこと」に出来るかのように振舞うそぶりは、あまりに欺瞞的に過ぎている。


宗教が人を救う、か?
では、宗教業界紙がその紙面の大半を教団内の派閥政治に費やしている現状をどう説明するのか。
「お東さん」の北側の寺務所通用門では毎日、黒塗りの外車がゴキブリのように出入りしているという事実をどう説明するのか。


もはや生者に有効な策をほとんど講じない宗教は、ビジネスが人に煽る「恐怖」を、ビジネスが人に与える実害を、糊塗する方便でしかない。
そう、都合のいい言い訳だ。伝統も、文化も、宗教も。
それらは所詮、「恐怖」の方棒を担ぐ小ズルイ悪党だ。


さんざ「恐怖」を煽り、差別を区別と言い換えて誤魔化し、弱者への偏見を胸にかかえて気づかず、気まぐれに寝言をこぼし、はては宗教を持ち出して韜晦してみせる。


ならば、はじめから語るなというのだ。
その無駄口を慎み、無知を自覚し、有用の場、有用の士をその資金で以って支える側に回れというのだ。黙々と、ただ黙々と!
ビジネス人ごときの能力でこの社会の問題を斟酌するなというのだ。黙って金を出せばいい。どうせ考えたところでロクな物にはならないのだから。
伝統や文化や宗教を持ち出して情に訴え、それを糊塗する文化人もまた然りだ。

*1:人間とは

*2:そして、アカデミシャンもまた然りである。

*3:ビジネスエリートと文化人

*4:モテる者がモテざる者を語れないことも同様である。