「まじめさ」の裏切り

美徳の不幸 - 「通俗道徳」の遵守と「裏切られ感」

ここから僕がふと思い出したのは、例えば斎藤環氏の「引きこもりは一般に真面目すぎるくらいの人」であるという説明だ。引きこもりや、場合によっては一部のフリーター、NEETにも、もしかしたら、なお*1と同様、道徳律に裏切られたという感覚があるのではないか?「学校で言われたとおり、真面目に真面目にやってきたけど、ちっとも幸せではない」という「裏切られ感」が払拭しがたく彼らの内面に浸透しているのではないか?だからこそ、彼らにはなかなか、「こちらの世界」(まだ、建前としては通俗道徳の世界だ)からの「説得」が届きにくいのではないか。


やっぱりこういうことだろう。


しかし、どちらにしても――まじめさを突き詰めた先にあるものも、まじめさが否定された先にあるものも――内面=宗教へと傾斜していくというのはあまりにも「救いがない」話だ。
――そう、宗教に救いはない。特に、日本仏教の中には。そのことだけはよく知っている。まだ、キリスト教*2か、イスラム*3のほうがましだろう。


監禁されていた女子高生*4が、駆け込んだ先が、お寺ではなく教会だったことからも、その感覚は、皮膚感覚として正しいのではないだろうか。

*1:大本教の開祖、出口なお。リンク先前段参照。

*2:カルトカリスマ的教会は除く

*3:よく知らないのであんまりいい加減なことはいうといけないのだけれど

*4:中学生だったか