「生きづらさ」の正体〜「世間」という名の「神聖支配」〜

ささやかな思考の足跡: 生きづらさと自分の価値と


この「生きづらさ」の根源は、
個によって成り立つ「社会」というものがこの国には存在せず、
はじめからありてあるものとしての「世間」のみが存在し、
そして、その「世間」を牛耳っているのが、「お上」の名で無謬的に崇拝される世襲の支配層――この世ならざる「異界」のエリートである……


ということなのではないのだろうか。


この国にある「世間」の下では、「浮世の下々」と「異界のエリート」とは決して肌を触れ合わせることなく、しかして、その「お上」による「神聖なる支配」は何人たりとも異論をさしはさむ余地のないものとして「盲目的に信仰」されている……


「個人に目覚めることそのものが、この国で生きることへの苦痛の根源である」という事実は、反権威・反権力の姿勢をも「非政治性という保守性」へ転化するまでの強制力を持ちえるまでに至っている……


そして、その強制力は、「社会の常識」だの「日本的伝統」だの「仏教的心性」だの「日本的精神」だの「日本的霊性」だのというコトバで美しく語られることによって、軽々と理性や思考をすみずみまで懲伏し、こき下ろし、冷笑し、理性や思考をまったく無価値なものとして捨て去ることを人々に促す……


そうして、そうすることを続けることによって、「はじめから理性や思考を持たないこと」こそが、この「世間」なる「神聖支配」の構造の下での「幸福」――上見て暮らすな、下見て暮らせ――、――世襲を羨むな、NEETを蔑め――というものを、「可能にする」のだということを、


……「事実化」してきたのだ。


江戸三百年のはじめより。あるいは、大和朝廷のはじめより。あるいは、「天孫降臨」のはじめより。