モテツールとしてのオタク ①

そんな自爆スレスレの瀬戸際行為でしかないモノを、戦術として選択する人間がはたして出てくるのだろうか?
――そう思うのが普通だろう。


しかし、見渡してみれば今や、アノ「電車男」が大ブームである。
かの「出来事」が事実か虚構かという議論をすっ飛ばしたところで「大ヒット!」となっているその様子は、一般人がオタク――存在としてのオタクに、これまでとは少し違った目線を配り始めているということの表れなのであろうか。
――もちろん、それは「フロンティア」の匂いをかぎつけた「市場」の戦略の成果ではあるのだが。


そして、リクエストの要点もここにある。

『オタクがやけに流行っています。このままではモテツールとしてオタクを名乗る輩が出てこないとも限りません。そこでほんとのオタクとなんちゃってオタクの違い「オタクの境界線」を教えてください。』


だが、その「境界線」――オタクとは何かの定義を語るには、このブログではあまりに紙幅が狭すぎる*1
そこで*2、ここでは「モテツールとしてオタク」という視点に着目して、その「ツール」化した後のオタクの風景を描いてみたい。


そもそも「ツール」とは何だろうか?
直訳すれば「道具」であるし、雑誌言語的に意訳するならば「アイテム=商品」となる。また、「モテツール」という言葉からは、「モテ(る)という目的」のために使われることを、その本質として想定していることが伺える。
それらを総合するに、「ある種の目的のために事後的に*3獲得され、その目的に資するモノ」こそが、ここに言う「ツール」ということになろう。
そう、「ツール」が「ツール」足りえるのは、その役に立つという一点においてのみである。


しかし、「ツール」が「役に立つ」ためには、さらにその前提となるものが必要となる。特に、物質的な作用を目的とする、いわば「物理的ツール」ではなく、「モテ」という精神的作用――社会的関係性の獲得――をその効果・目的とする、「精神的ツール」である「モテツール」の場合には、前者よりも高いハードルが待ち受けている。


「物理的ツール」の場合の前提条件とは何か?
それは、その「使用法の了解」「効果の認知」といったものとなる。それが、「どこでどのように使われるものであり、どのような役に立つのか」ということについての認識――価値観の共有が、あるものが「ツール」としての性格を獲得するための必要条件である。
そして、やや結論を先取りすることにもなるが、その「ツール」の本質には、「使用者に対して自立するもの」=「使用者の外部にあるもの」という要素が不可欠のものとして付随している。


では、「精神的ツール」の場合はどういうことになるのであろうか?何が前提条件となるのであろうか?
基本的には同じことである――「どこでどのように使われどんな役に立つのか」。そして、本題である「モテツール」ならば、それがすなわち、「異性の気を惹くおしゃれアイテム」としての、個人の魅力(付加価値)を高めるものとしての共通認識=価値観が、広く社会に共有されていることが前提となる。


そのような、「オタクに対するマイナスイメージの社会からの完全な払拭などありえない」というのは簡単だが、完璧であろうとなかろうと、徹底か未徹底かを不問にして「大ブーム!」という形で、ある種の変化をもたらしたのが「電車男」であることは、否定のできない「事実」である。
――そう、「ありえないことは、ありえない。」*4


だが、そこ――「電車男」には、「オタクのありのままの姿」が許容されるというファンタジー的な願望が投影される一方で、「オタク的な趣味の徹底廃棄」を意味する「脱オタ」を叫ぶメッセージが込められてもいる。


その二つの相反する要素の妥協点が、「精神的ツール」としてのオタク、「モテツールとしてオタク」ということになろうか。
――つまり、精神的に許容され、オタクというメンタリティの承認は受けられても、やはり、オタクルックやオタクグッズという物質的な側面は、それがいかにメンタリティの核を形成するものであろうと、やはり「社会的」な「ツール」としては承認され得ないということである。


ここに来てようやく、その中身について思考をめぐらすことが可能になる。そう、その「社会的」な「ツール」としての「オタク」――「モテツールとしてオタク」の中身とは――。


それを解くためにはやはり、比較という手法を使うことが適しているのかもしれない。
――図らずもここで「境界」に言及せざるを得なくなったというわけだ。


だがそれは、やはり「オタクとは何か?」という巨大かつあいまいなテーゼに対する挑戦となることは否めない。
つまり、結論を提示するために仮に使用した手法によって、結論はおろかこの試考自体が収拾の付かない羽目になる可能性も大きいということである。
――だが、ここまできたら蛮勇を振るうのがセオリーというものだろう。


あえて問おう、「オタクと「モテツール」を利用したなんちゃってオタク」との差は、一体どこにあるのか?


ひとつには、「歴史」の有無という点が挙げられる。
すなわち、現在に至るまでの時間の大半をオタク的行動、オタク的知識の獲得に費やしてきた人間と、昨日今日付け焼刃で身につけた人間との差である。
そして、もう一つこの「歴史」が意味する差異は、それらオタク的知識に対する歴史的追及への姿勢の有無である。知的好奇心、知的探究心と言い換えてもいい。つまり、あくまでそれを「ツール」として固定化したもの、自立したものとしてまなざすか、今この瞬間をも絶えず変化する「状況」であるとまなざすかの違いである。


ふたつ目は、そこから必然的に導かれる、話題の「深度」の問題である。端的に言うと、専門性と一般性の対立ということになる。特殊性と普遍性の対立と言い換えてもいい。
わかるものにしかわからないような、まさに専門的といえるような「深い」、特殊な知識群を前後倒錯、支離滅裂、縦横無尽に駆使するオタクと、あくまで、一般的に知られたレベルにおいてそれへ言及する「ツールオタク」の間には、一朝一夕には埋めがたい差異が存在することになる。
――もちろん、その専門性を一般にもわかりやすく解くことができるのが真の意味でのオタクであるとは思うのだが。*5


だが、まさその一般的であることが、「ツールオタク」という現実の誕生を生むきっかけにもなる。
――つまり、それで楽しめる相手であればその程度でいい、歴史や専門性などまったくかまわないということである。


もちろん、そこで交わされる「オタク的会話」――あくまで「的」会話は、オタクから見て、徹夜明けのコンビニ朝食以上に歯痒いモノに写る「底の浅い」ものとなるだろう。
――「ガンダムとかって、アレでしょ?アムロとかシャア専用とかがでてくる…」「そうそう、それでなんか題が付いててなんだっけ?ナントカのシャア…そうそう、「悲しみのシャア」とか!」「そうそれ、そんなカンジ!」*6


だが、こうして「通じている」のであれば、その二者*7の間には、オタク知識の量の過不足について問うような必要がまったく、いや、そもそもないことになる。
「コミュニケーション」の名で錦の御旗として掲げられるものの正体が、「薄く・軽く・明るく」といった「同調行為」である以上、その知識の真偽の如何はまったくの無に帰するのだ。


そう、やはり問題は「コミュニケーション」の構造にこそあるのだ。
――そこではもはや「境界」は、「断絶」として成立している。


では、そうして成立する「コミュニケーション」における「ツール」となり得るものには、どのようなものが考えられるだろうか?
――それがもはや、元のオタクとは何の関連も持たない、断絶した境地であるとしても。


(続く)

*1:ちょっとマテ

*2:華麗にスルー

*3:非先天的=非アオプリオリに

*4:いい意味でも悪い意味でも

*5:そして、これは広く専門家一般に通じることでもある

*6:ほぼ実話です。

*7:あるいは複数