「脱オタ前」:「脱オタ後」〜天満唯さんへのコメント2〜

[試考]天馬唯さんへのコメントのコメント欄より
天馬唯 『若者定番シューズに関しては脱オタガイドと同意権、としてリンク貼ってますよん。
アイテムを特定しないのは、特定してしまうとそれが「新たなオタファッション」として定着してしまい陳腐化してしまうからです。
若者定番シューズと言いましても、デザインや色の変更なんかもたまにありますし・・・。


美容院でハードルが高いと言われてしまうとこちらも策がないですね・・・。
ライブドアのコメント欄、融通利かなくてすみませんです。』 (2005/11/05 20:47)

<アイテムについて>
「特定してしまうとそれが「新たなオタファッション」として定着し陳腐化してしまう」
そこまでお考えなら、是非もう一歩踏み込んで、その「アイテム主義」的思考そのものを脱構築するところまで行けませんでしょうか?


そういうお仕事柄仕方ないのかもしれませんが、少なくとも直接の「客」を相手にしているのではない以上、職場的スタンスから離れるくらいの自由度はお持ちになってもかまわないのではないかと思います。


何か、脱オタの参考になるもの、脱オタの助けになるものを、と考えたときに、それが「モノ」として――具体的な「モノ」として提示される必要は果たして本当にあるのでしょうか?


ファッションを水のように空気のように感じるような人間であれば、思考する暇を嫌い、「あるべき姿」を示されることに嬉々とするかもしれませんが、そもそのような志向を持たないものが「脱オタ」なる壁に突き当たっているのではないのかという思いがあるのです。


であれば、そこで初心者レベル、入門者レベル、もっと言えば低価格帯の、「これさえあれば「脱オタ」完・了!」という「アイテム」が提示されることには、はたしてどこまでの妥当性があるのか、はたしてどこまでの実効性があるのか、という疑問がぬぐえません。


そう、「脱オタ」なる概念にファッション的要素が求められているとするならば、より根本的なファッションの法則のようなものこそが、ファッションの理論のようなものこそが必要とされているのではないかと思うのです。


単なるお手軽「アイテム」ではなく、そも「洋服」というものはどのような意図でもって形作られ、どのような配置が理想であるとされ、その組み合わせにはどのような哲学が潜んでいるのかといったような。


必要なのは、販売時点でのさまざまの利害のからむファッションではなく、その製造の時点での、デザインの時点でのファッションなのではないでしょうか。


さらに付けたしをするなら、
関東圏にしかないような「丸井的」なる概念を出されても、はっきり言って意味のない地域に住んでいるものからすれば、
そのような自らの住まう地域のもつ優位性への自覚の欠如こそが「東京ブロガー」的なるもの
であると指摘できるのではないかとも思います。




<美容院というハードルについて>
「こちらも策がないですね」って、その「素直」な姿勢ってのが、傷もつ身にとってはまた反感の火種になってしまうような、「脇の甘さ」なんじゃないかなと思うのですよ。


そのような「ハイここまで」という姿勢は、その共感の深さの如何にかかわらず、言ってしまったが最後、「境界の存在を暗示すること」になっていくのではないでしょうか?


「境界」というものの存在に傷を受けてきた/受けているものからすれば、ある程度のところまで導かれた所で現れたものはやっぱり「境界」だった、というのは、畢竟「裏切り」に見えても仕方ないのではないでしょうか?


いったん信じかけたものの「正体」をそのように感じたとき、人はさらなる対極へと退行してしまいます。
「導かれた」以上の距離を「戻って」しまいます。


そういうことに対する姿勢・配慮が、どうも「脱オタ後」の皆さんには、
「甘い」というか、
より端的に言えば「欠けている」、
より露骨に言うならば「無自覚」であると感じられて仕方ありません。


「惜しい」というか、なんというか、むしろ「逆効果」ですらある場合もあるのではないかと感じます。


もう一度、自分が「足を踏まれていた」当時の皮膚感覚を、せめて思い起こされることは、やはり、ひとたび壁を越えて「脱オタ後」の領域に入った方には難しいのでしょうか?