非モテの正気、モテの狂気〜天馬唯さんへの回答4〜

うん。気持ちは分かるんですけどね?


そもそもオタクが選択した行為に暗黙のうちに潜む哲学論理からいうと、その当然の帰結として「ファッションからの撤退」というものが導かれるわけなのですよ。
であるならば、
「すでに第三の道を獲得することで快楽を得たというのに、なぜいまさら首をたれて軍門に下り快楽を求めなければならないのか?」という疑問しか生まないのですよ。
「脱・オタルック」圧力というものに対しては。


もちろん、それが「好意」でなされているものであることは分かりますよ?
でも、はたして「好意」でなされたことがすべて善なるものであるかといえば、必ずしもそうではないということもご存知でしょう。
天馬さんのようなイケメンが言うような「脱オタ」というのは、悲しいかなそういったものなのです。


それに、どうにも天満さんは外見的なことばかりを強調されているのですが、これはまさにセクシャリティの問題として立ち現れた事象なのです。
精神の内面に深くかかわる事象なのです。
僕やハザマさんなどで言えば、悪魔的な精神の奥底にまで関わった、たかが着飾ったところで、たかがパートナーにめぐり合ったところで、たかが結婚したところで、到底解決することなどできないシロモノなのです。


先に、「美容院の怖さを知らない」と言い放ったような、無垢の宝石のような強さなどわれわれには、そも存在しないのです。
言うなれば、火に焼かれ、叩きのめされ、水に浸された末に出来上がった、鋼のような精神。
それが「非モテマインド」なのです。
誰が望んだわけでもない、誰に頼んだわけでもない、にもかかわらず、火に焼かれ、叩きのめされ、水に浸されてきた末に出来上がったのが、この「非モテマインド」なのです。
いまさら何が「癒し」となるものでしょうか?


ただ、もちろんいわゆる「脱・オタルック」が「これ以上の被害者を出さない」がための親切心であることも、重々承知です。
だが、それは、日本人すべてのこころが「非モテ」に等しいものとならなければ到底不可能なことなのです。
いや、すべての人間のこころが「非モテ」にならなければ、不可能なことなのです。


なぜならば、「ファッション」の本質とは「差異化の差別構造」であるからです。


常に、否、永遠に、彼我の差異を容赦なくナイフのようにえぐり合い、優劣を、勝敗を刻み込んでいく。永遠に繰り返される輪廻のような苦しみがそこにはあります。
たとえ数多くの勝利を得、優越の快楽を得たとしても、それは六道の内、「天」の名で言われるものに過ぎません。
すなわち、たとえどれほど長命をえたところで、死すべき運命からは逃れられないということ、
そのファッションが「古い」と言う一言で断罪されることからは逃れられないということです。


また、たとえネルシャツ姿のオタクが「丸井」に手の届くところまでたどり着いたとして、そこには「丸井系=オタク系」なる「差異化の差別構造」が、すでに立ち現れているではありませんか。
ユニクロがGAPやコムサイズムになったところで同じことです。


だからこそ、
その構造を数多の迫害から学んだからこそ、
オタクはファッションを放棄したのです。


にもかかわらず、オタクに対してファッション内部での、差別構造の内部での蜂起を求めるというのは、狂気の沙汰といっても過言ではないでしょう。


そう、何度でも言いましょう。
モテ達の狂気の扇情に参加しないのが、非モテの正気なのです。