「聖痕としてのスティグマ」を超えて

          「被害者性」=「当事者性」

……なんというか、「当事者」主義というのも、また「同調主義」と同根のような気が。


「同じ傷をもつ身であることの証を立てるためには、語ることを放棄しなければならない!」
――といったような形の。


とすると、ここでは「語る」ことこそが、「当事者」性からの「逸脱」を生み出す原因として糾弾されているわけだから、先に言ったような「対話」を頭から否定してかかっている姿勢なのだとも言える。


そもそれこそ、「対話」とは双方の「異質性」を前提として組み立てられるわけであるから、その「世間」の持つ主張としての一貫性は確固たるものであるといえる。


だが当然、「悪」を滅ぼすべくいきり立つ「正義」の根拠――正当性をどこにあるのかを突くと……ウロボロスのような姿が浮かび上がるだけだ。


なればこそ、対立軸上にポジションを取り、結果的に相手を利するような行為をこそ、「裏切り」として指弾し、斜め下からのグラウンド・タックルを仕掛けること――総論の大上段的な戦略ではなく、各論のゲリラ的な戦術行為の積み重ねが、もっとも有効であると考えられる。


――「急がば回れ」。