中田英寿の「下流」意識

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中田「国の名前で戦う時代終わった」


またMF中田(ボルトン)も自身の公式サイトで「特に最近思うのは、国の名前で戦うような時代は過ぎ去った、ということ。戦い方によっては総合力で劣っていても勝つ可能性があるというのが現代のサッカー」と心境を明かした。98年から海外でプレーを続ける実績があれば強豪が相手でも恐れることはない。


対オーストラリアでは01年コンフェデ杯準決勝で決勝点を決め、今年のコンフェデ杯ではブラジルとドロー。それを胸の内にしまい「より自分たちの色を出し、試合を楽しんだ国こそが、この大会を勝ち進んでいける。それが日本となるように…」とジーコジャパンで積み重ねてきたサッカーで勝利を求める。

この発言をもって、また中田英を「サヨク」認定している馬鹿2ちゃんねらーがウヨウヨいるわけですが、そのあまりの単純なオメデタさには羨ましさすら覚えかけます。
死ねばいいのに。


まともなリテラシーがあれば、これが「ブランド信仰に対する決別」であることくらいすぐに分かることでしょう。


マーケティングに踊らされ、「喜ばされ」る無知な消費者と、サッカー大国のブランドの威光に気圧されて萎縮する、あるいは「貴重な経験」という名の敗北にありがたみを感じるような心性は、まさにイコールで結ばれるものです。


そういったひたすらに受動的な、いうなれば戦う前から敗北を刻み込んだ姿勢に対して、ハッキリとNO!を突きつけているのが、この中田英のコメントなのではないでしょうか。


マーケティングに乗ってこない取り扱い不能な消費者層をして「下流」と蔑むことで、現在の「ブランド型消費構造」「マーケティング市場」を保守しようとしたマーケティング屋の寝言ポエムに、浮き足立つ人間も多いようであり、「市場」を保守することで恩恵を受けるマスコミがその様をさらに煽ったりもしていますが、
その論理でいくなら、この中田英の意識はまさに「下流」の精神そのものであるといえるでしょう。


「自らの判断で、自らの力を自覚すること」を蔑むことで、利を得るのは、「歴史」や「伝統」を振り飾す保守既得権益層――サッカー大国に他なりません。