「日本的なるもの」に触れているからすばらしい?はいはいワロスワロス

タイトルだけでブクマするととんでもない寝言ポエムに引っかかるという典型的な例。
他のエントリはともかくとして、これに関してはあまりにひどい。
ロリコンファル - 書評「萌える男」 −成熟と喪失−
もちろん、このエントリ自体を文学だというような立ち位置の「相対化」を図られれば、批判の矢はするりと届かなくなるのだが、しかし、そのような相対主義的価値観、相対主義的スタンスはあっというまに、自らの価値をのみ絶対視するエスノセントリズム、自民族中心主義、国粋主義へとスライドしていく。


ひとつ言っておきたいのは、あまりにも「わかりやすい」結論が見つかったときには、それは、往々にして「批判の余地のない」ものである可能性が高い、ということである。
つまり、それはある種の「宗教的絶対的真理」に等しいということである。
その「わかりやすさ」はどこまでも「信仰」と呼ばれるべきものであって、論理的な「結論」では決してない。
故に、それに対する「批判」はその効力をそがれるわけだが、しかし、そのことはもちろん、その「信仰」が「論理的結論」であることを裏打ちする、保障するものではまったくない。


故に、信仰に生きる者がことごとく選択するひとつの戦略が存在する。


それが、「情緒の称揚と理性の否定」である。


自らが何から恩恵を受けているかに対しては無恥無自覚をさらけだして無視し、「今のセカイ」から失われた「美しい情緒」「素晴らしい感受性」「豊かな感情」などというものを目の色を変えて崇め称えて褒め奉り、それらを「倫理」や「道徳」という名で飾り付ける。


こんな百年一昔の本がいまだに「新しく」出てくるその病根の根深さに絶望感を覚えつつも、同時期にこのようなまともな本が出ていることに多少救われた間を得る。
――だが、この二つを並べて売るようなセンスのある本屋がこの国に何件あるのか。売れるものがいいものだなどというセリフが本屋から聞かれるようになっているのなら、私はもうブックオフにしか足を運ばない。


「日本:西洋」だの「女権:男権」だの「自然:人間」だのという、「二項対立」的な比較検討に見せかけた自画自賛に飛び乗ることでもって何をか語ったともし思っているのなら、ほんの一瞬でいいからその足下を省みてほしい。
――それが歌ならまだしも、ではあるが、この歌=詩もまた情緒信仰へのスライドのスイッチのひとつである。




<参考>
日本の文化ナショナリズム (平凡社新書)
彷徨えるナショナリズム―オリエンタリズム/ジャパン/グローバリゼーション
文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方
ポストモダンの新宗教―現代日本の精神状況の底流
トランスナショナル・ジャパン―アジアをつなぐポピュラー文化
日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)
人はなぜ宗教を必要とするのか (ちくま新書)