この国にあるのは「学歴信仰社会」ではなく「学校システム信仰」である。

朝日わくわくネット−私は登校拒否をしている13歳

私は、登校拒否をしている13歳。中学に入り、1ヵ月経たない内に辞めた。学校は監獄のようで、隅々まで監視された。何も判っていない大人の授業は、息が詰まる位退屈だった。授業と言うのは、教科書の文字に沿って読む物だった。そんな学校に愛想を尽かして、私は学校を去った。
(中略)
登校拒否をしている私はとても生きにくい。なにせ、学歴信仰社会だから。でも、その辛さは、学校の辛さとは違う辛さの様に感じる。
今、学校に行かない子供が増えている。理由はいじめなど人それぞれだが、それだけ学校に魅力が無くなっていると言う事ではないだろうか。学校に行っていない私に、クラスの子はずるいと言う。それは、学校に行っていない私を羨ましがっているとしか思えない。

学校という隔離施設にいるべきとされる年齢を超えれば、そこに開けてくる真実は
「「学歴差別」はしない」「過去は問わない」「知識経験はまったく期待しない」「「若者らしいヤル気」と「若者らしい明るさ」と「若者らしい上昇意欲」など「だけ」が「必要」だ」「年長者に対してはその質のいかんにかかわらずただ「尊敬」し、「若いという罪を抱える者は「素直」に従っていればいい」という麗しい奇麗事の数々だ。


にもかかわらず、学校は温存されている。中身も何も期待されてはいないのに。


もちろんそれが「年少者という罪人」を隔離する施設であることだけは確かだ。
「健全な大人の社会」を乱すことのないように、見えないところに押し込むというものだ。


だが、もちろんそれだけではなく、そこには覆い被せられるシステムとしての見えにくい責務というものはある。


だが、今日はダルいのでまともに話が展開しない。


ただ、「学校に魅力がある」というのはどうなんだろう?あるとしたらなんだろう?


ツンデレ眼鏡図書委員長か?そいえばいたな。