ハリーポッターと「ポリティカルコレクト」の差別性

さすがにこれはどうするかな、と思って少し興味津々でいたのだが、なんとも意味深なオチになった。
ハリーポッター第六巻のタイトルの話である。


原題『Harry Potter and the Half-Blood Prince』Harry Potter and the Half-Blood Prince (Harry Potter 6) (US)
直訳すると、『ハリーポッター混血のプリンス』。
仮題の時点ではこのままだったので、もしやと思ったが、やはり、決定稿では、「ちきゅうにやさしい」もとい「政治的に正しい」配慮が施されたようだ。
超訳ハリー・ポッター謎のプリンスハリー・ポッターと謎のプリンス ハリー・ポッターシリーズ第六巻 上下巻2冊セット (6)


「混血」という単語にその表現の差別性を見取っての、主要読者層に対する「教育的配慮」であったのかも知れないが、ところがどうして原題ではそのまま「Half-Blood」となっているのだ。
なぜわざわざ、不要にも思える改変が加えられたのだろうか。
大人好みのイマドキの神話たるグローバルスタンダードとは、あくまで経済活動の面にのみ適用されるべきもので、このような各国固有の文化的問題、あまつさえ倫理的問題に関しては、適用外の指定を受けてしかるべきだとでもいうのだろうか。
そこには極めて政治的な意図、国語教育的な政治性が潜んでいるように思える。


経済と文化というそのダブルスタンダードを仮に立てたとしてもである。
本という出版物が経済の枠から一歩もはみ出ていないことは明白である。
また、そもそもこのイギリス発アメリカ経由の『ハリーポッター』は、グローバルスタンダードの尖兵とも言うべきものである。
すなわち、グローバルスタンダードなる概念は=一極支配的経済システムのみを意味するものではまったくなく、西欧文化中心主義をも十二分に兼ね備えたものである。
そこには文化はもちろん、倫理、そして宗教までもが渾然一体となっている。


その現状に、政治的にか教育的にか目をつぶって、「経済と文化は別物」だというお題目を掲げたところで、
それは「ポリティカルコレクト」(政治的正しさ)ではなく「ポリティカルセレクト」(政治的選択)である。


揚げ足取りになるかもしれないが、たとえば仮に原題が『Black Prince』であったならどうなっていただろうか?
訳者はそのまま『黒いプリンス』と訳しただろうか?
だが、もしそれを『謎のプリンス』と訳していたら、そう訳すこと自体が差別的であると指摘されていたのではないだろうか?


ここで言いたいことは、「混血」を「謎」と言い換えることが、返ってその差別性を浮き上がらせているのではないかという指摘である。
そして、「混血」という概念に対して、この国ではそれを「謎」として、「異常性をはらむもの」だとまなざしてしかるべきだとする、そのような「政治的に正しい差別意識」があるのではないかということである。


すなわち、「混血」を「謎」と言い換えることに対する政治的な差別意識の存在である。
よりありていに言えば、「混血」を異常視する差別意識の存在である。


かのプリンスが話の鍵となる登場人物だからこそ、『謎の』と訳されたのはわかる。
だが、鍵を握る事物や人物に対して、そう言い換えていいのだとしたら、これまでのタイトルがすべて「謎の石」「謎の部屋」「謎の囚人」「謎のゴブレット」「謎の騎士団」となっていてもいいのではないか。
「何の」という属性が示す意味が物語の核になるのだというなら、なぜ「混血」という属性だけが「謎」と言い換えられるのか?
やはりここには、この「混血」という存在そのものに対する「政治的に正しい差別意識」の影が色濃く現れていると思われる。


「混血」という「異常さ」「間違い」を示す単語が使われることで、裏返しに、この国に密かに存在する「「純血」という正しい信仰」の存在をあぶりだしにしてしまうがために、「混血」という言葉が抹消されたのではないだろうか?
当然のように存在するこの「純潔:混血」という差別意識を、隠しおおすために、「混血」は「謎」と言い換えられ、そして誰もその「正しさ」――「政治的に正しい差別意識」を意識することのないようにされたのではないのだろうか?


そう、仮に原題が「Pure-blood」または「Full-blood」であったなら、その訳はどうなっていただろうか?
「聖なるプリンス」と訳されていたのではないだろうか?


この「純血への信仰」こそが「自然なるもの」であるという、
「自然なるもの」は意識するものにあらずという、
「ありのまま」を今のままを守ることこそが「正しい」ことなのだという、
政治的に正しい選択」なのだという意識が、
この国に存在する「政治的に正しい差別意識」として隠しおおされているのではないかということである。


女系天皇をことさらに忌避する保守旧弊層の差別意識とは、「混血」を異常視することに他ならない。
われわれは差別する、故に差別を続けなければならないというその意識は、「純血の聖なる天皇」という自らの信仰を固持せんがために、女系天皇に対して「日本国民と謎の天皇」という「異常」観を植えつけようとしているといえる。


しかし、そこでもまた直接的に「混血」という表現が使われることはない。
政治的に正しい配慮として、歴史や伝統という言葉がきらびやかにちりばめられ、そのグロテスクな差別性をネオンの蛍光で覆い隠している。
そして、一方の「純血」にはまた、「政治的に正しい表現」が与えられている。――「万世一系」というお題目である。


「ポリティカルセレクト」に従った言葉の言い換えによって差別性を隠蔽することこそが「ポリティカルコレクト」であるとされる。
これこそが、さらなる差別の構造であるといわずしてなんであろうか。


そして、
そのような差別の構造一端を、意外なところで垣間見せたのは、トリックスターたる「魔法使い」の面目躍如か。










P.S.
また、聞いたところによると、ドイツでは無声映画のことを「おし映画」というのだそうだ。
「ポリティカルコレクト」とは、「グローバルスタンダード」とはなんぞや?