接続されたブロガー=接続された人間

自分で感じていた不満や違和感を他人に当り散らしてみるという、とても悪い見本を見せたわけですが、
その源泉は、どうやら一見新天地に見えたブログというフィールドが、その身、その実、徹頭徹尾、見えざる絶えざる技術によって、めっぽうデタラメがんじがらめにユーザーを拘束するものであるという点にあったようです。


これは先に言っていた、グーグルやWEB2.0に対する違和感とまさしく同根の問題でありましょう。


映し世の醜い体を晒すことなく、ブログというクールな義体を華美華麗に舞わすそのために、その見返りに、何が犠牲になっているのかということです。
ここはいったい何のための犠牲、誰のための犠牲でもって成り立つ、いかなる場であるというのか。


はてな」のものは「はてな」のものでしかないのです。
それは「はてなダイアリー市民」などという称号を「与えられる」端末ユーザーのものではないのです。


故に、はてなブックマークがいかに「ソーシャル」を名乗ろうとも、それがはてな内部の一システムとして収束していくのも、技術として構造として折込済みのことなのです。
この記事もはじめは、「はてなダイアリーは、はてないダイアリーではない」というタイトルだったのですが、もはや私はこれからそういう点にすらも細心の注意を払っていかなければならないのです。
ささやかな、ごくささやかな抵抗として。


そしてもちろん、これははてなに限ったことではなく、他のブログサービスにおいてもSNSサービスにおいてもまったく同様のものなのです。
どこへ行こうとも、技術がこの身に接続され、その内部に拘束するのです。


そして、そこまでの抵抗を感じるというのであれば、本来はそれぞれが自らの体に応じたシステムを独自に組み立てればいいということになるのでしょうか?
いや、それもまた結局、同じことで、どこまでいってもこの「接続される技術」の触手から逃れることは、ありえません。
この身が技術に触れている限り、その技術が身体を規定するのです。


さらに視野を広く見るなら、その「技術」とは、なにもネットワークや情報処理というものに限らず、社会と呼ばれる集団としての人間の存在そのものが、否応なしにこの身に接続される技術として立ち現れてきます。


であれば、こうまで「接続される」ことに対して違和感を感じるというのは、
やはり、この私の認知において相当なレベルで致命的な疾患が刻み込まれているという証にこそなれ、
技術の侵食性を指摘するという行為は、なんら対象への否定的批判とはなりえず、
むしろ、自らの基盤をこそ侵食し否定し破壊するという、自己破壊的言及としかなりえないのです。


度を外れたスタンドアローン*1はコンプレックス*2とはならないのです。


すべての接続されたブロガーに幸あれ。

*1:個体

*2:複合体