オタク×サブカル百年戦争の原因は地政学的な文化資本格差

そして、この対談を読んで、つくづく感じたのは、結局オタク(おたく)と新人類というのは、首都圏の進学校出身者の文化的差異ゲームであって、それがたまたまマスメディア上に出ていたから、すごく大きな問題に見え、そんなメディアを一身に受容していた人たち(この場合は香山リカ氏の弟。北海道出身)によって認識された対立なんだなあと。そして、どうもこの対立というのは今も続いているのではないかという気がしている。


ARTIFACT@ハテナ系 - 文化と差別、そして「おたくと新人類」

地政学的な文化資本格差」
あるいは、「メディア格差」ともいえるか。
つまり、「メディア」はどこに存在しているのかという問題。
また、アルファブロガー*1×オメガブロガー*2バラ戦争も、コレと同じ原因をもつものだと思う。


もちろん、これを決定要因として提示してしまうと、次の段での指摘にあるように、「差別意識の正当化」にもつながっていく。

文化人の出身地、そして通った学校(特に高校)でわけていくと、おそらく一定の傾向は出てくるだろう。でも、文化的差異ゲームの話に出身地を入れてしまうと、それは本当に「差別」であって、それを一般化しようとするのは暴力だろうと考えるから、わざわざ主張する気はない。

まあ、ここで「高校」とか出てくるあたりが、足下がお留守なヤムチャ的視点というか、東京的=メジャー的な視点だなあと思うところでもある。核は、もっと引いたところに、「東京か否か」というところにあるのでは?


でも、「文化資本」には本質的に「環境格差」の問題が切り離せずに付きまとっていることは、否定できない。
そして、その環境のメジャー(はかり)となるのが中央に存在するメジャーメディアであったとすると、それは主要供給源にしてルールオブルールであるという、格差を本質とした存在として立ち現われ、結局、「参加者」は、容易に逆転不可能な自作自演劇場に参加を余儀なくされているということになる。


これはまあ、発展途上国の発展途上性が、先進国の先進国たるゆえんとして温存されるべく仕向けられていることにも通じる点か。
そこには「神の見えざる手」の発動要因としての「情報の公平な共有」など望むべくもない。
問題の核は、商品の個別的な有無にあるのではなく、「情報の格差」にこそあるからだ。
そこにまったく同じものが提示されたとして、「もてるもの」にとっては、それは「あまりに自明に過ぎる当たり前のもの」として、「もたざるもの」にとっては、それは「ありうべくもない珍しいもの」として、それぞれ現れることになる。


極論すれば、商品を「文化」だとして享受している限り、この構造格差が改善されることはない。






とはいえ、それが極論たるゆえんは、「共通の認識」を徹底して排することが善だとするようなところ。

*1:東京ブロガー

*2:地方ブロガー