これからしばらく「社会的強者」のことを「スピリチュアル・シングル」と呼ぼうか
macska dot org » Blog Archive » フェミニズムを私物化する男性ジェンダー研究者
macska dot org » Blog Archive » 「スピリチュアル・シングル論」は、マイノリティをダシにしたマジョリティのための自己啓発セミナーだ より
「スピリチュアル・シングル」とは、伊田広行という男性のジェンダー研究者が提唱する概念、というか<覚り>の境地です。つまり、「宗教」です。
それがなんになるんだと、
「社会的属性とは無関係に生きられると思い込めるのは、社会的強者の側の特権」じゃないかと、
「そもそもマジョリティの側に立つ人間が(中略)自覚に揺らぎを覚えたところで、一体世の中の何が変わるというのか。それは、マイノリティをダシにした、マジョリティのため(だけ)の自己啓発セミナーでしかない」じゃないかと、
上のリンク先では批判されています。至極まっとうな話です。
ですが問題は、これがジェンダー研究者という枠にとどまらない点ですよ。
端的に言うと、先の岡田斗司夫=「文化エリート」=社会格差の問題と直結するのではないのかと。
さらにいうと、アイロニックソルジャー・タツル=ウチダの話にもつながるのではないかとか
さらにさらにいうと、このふたつ下の話にもつながるんじゃないのかとかとか。
さらにさらにさらにいうと、どこまでも「両極を見わたす」シロクマさんの分析芸だってそうじゃないのかとかとかとか。
だとすると見渡した限りで、この「スピリチュアル・シングル」=社会的強者に該当する人を、その属性別に分けてみるテスト。
岡本太郎=文化エリートかつ芸術家
岡田斗司夫=文化エリート
内田樹=文化エリートかつ博士*1
宮台真司=文化エリートかつ博士かつ文化エリートと結婚
t-kawaseさん=文化エリートかつ博士
シロクマさん=医者かつ博士(?)(+文化エリート?)
この人たちに共通しているのは、社会に対する視点がどこか常にシニカルであること。そして、それを指摘することをロマンチシズムと呼んで回避すること。
それは、「社会的スピリチュアル・シングル主義」とでも言うような、
「社会的属性とは無関係に生きているという思い込み(願望)」と「社会≒マイノリティをダシにして、マジョリティの側に立つ自らの自覚に1/fの「ゆらぎ」*2を覚えて」そして、「どこか<覚った>ような顔」をして、最後の最後には「自分の生活は自分で守ろうね」という、「自己啓発セミナー」的主張に落ち着くということ。
そして、どんな相手が「近づいて」きても、自分の「足場」が強固なことに意図的にかつ無自覚に寄りかかり、「やれやれ」という笑みをこぼしてみせる。
それなんて貴族主義?
はたまた、
それなんてホモ・エリート・ソーシャル?