変質する「スルー力」(読み:するーちから)


スルー力」が、何か「同調圧力」のように変化しているのを目にした。
あるいは、「スルー力」の「空気」化とでも言うべきか。

法務だけど理系女子の綴るblog: 「男は女にやさしくすべき」と考える不幸へのコメント -スルー力より議論力の重要性と、「優しさ」の意味と、「病院に行け」の怖さ-


そもそも、私は少なくとも現在の日本は「和」ということを尊びすぎるあまり、お互いに意見を交わしたり苦言を呈すことを必要以上に避けているのではないかと思います。ここ一年半ほど、まともな社会人生活をしていないので、ブログについてしか言及することができないのですが、「和」を乱さないための「スルー力」ということが声高に叫ばれ過ぎているように思います。意見を述べることが必要な場合にさえ、「スルー」することが良く、カッコいいと思われ、そこで熱くなって反論することは、カッコ悪く、大人のすることではないと思われているように思います。


そもそも、ノイズのような「ひどい罵倒」や否定的語句を、一々、感情的になって受け取らず、その文章にこめられた要旨のみを読み取るという、ある種の「リテラシースキル」を指していたように思うのだが気のせいか。


それは言うなれば、「モヒカン精神」のリメイクだったように思うのだが。


こちらの記事でも、「スルー力アウトソーシングの勧め」のようなことが言われていて、
jkondoの日記 - スルー力なんて無くていい
どうもこの国には、懐古主義的道徳が仕込まれた国語教育の成果がものの見事に蔓延し、その末路として、何をか新しい提言がなされても、それがたちまち「集団圧力」へと転化するという異常な状況を生み出しているように思う。


特に、じぇいこんの記事の致命的なミスリーディングは、「罵倒の無視」が「批判の無視」にすり代わっている点だろう。


「罵倒や非難や否定をスルーする」ということは、「批判を無視する」ということとはイコールではない。
その見事な例が、私のこの狂ったような罵倒的批判文に対する、id:essaさんの応答である。

こころ世代のテンノーゲーム - アンカテのいじめ対策案はぬるいどころか最悪である
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20061126/p1
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アンカテ(Uncategorizable Blog) - 偽りの共同体ゲームを破壊する為にいじめ加害者を理解する
http://d.hatena.ne.jp/essa/20061201/p1


しかし、「形式」ではなく「中身」を見るべきだという「スルー力」(するーちから)の提言が、言い出されてから一ヶ月かそこらくらいで、「同調圧力」化しているのをみると、なんともそら恐ろしくなる。


「考えて読め」という提言すら「考えるな、感じるんだ」になってしまうとは。


その意味では、効率を重んじるこの国の産業社会で「思考のアウトソーシング」は十分に行き渡っているようだ。


どんなに個人の能力が求められようとも、「誰かが言っていたこと」として、無形ゆえに無敵な帝王の拳がごとき「空気」になってしまう、と。