相互調整は「システム」ではなく「空気」である。ならば、


それは個人をネット上で確立するために、引き受けるべき課題なのでしょう。*1

ネットの意見相互調整機能に個人は抵抗できるのか? : ARTIFACT ―人工事実―


自分が面白いと思った作品が、ネット上では圧倒的に悪評の時、その面白いと思った感想をネットに書けるか? 逆にネット上では圧倒的に評判がいい時、自分はつまらなかったと書けるか? 時事問題に対して、ある意見が圧倒的に主流の時に、逆の意見を言えるか?
 他人がどう思っているかではなく、自分がどう感じ、思ったのか。そして、それを思っているだけではなく、公開の場でいえるかどうか。


そうだとも。そんなのはちっともシステムじゃない。機能でもない。



1.0だろうと2.0だろうと、差異によって成り立つ個人が寄り集まったものがWEBだというなら、その差異を掲げ、自らが個人であることを主張せずにいったい何のWORLD WIDE WEBか。



それで炎上する人が出るのだとしても、



「人は一人では生きられない」という言葉の悲劇を、そこで存分に味わってもらおうじゃありませんか。








「人は皆、泣きながら生まれてくるのだ」――『リア王シェークスピア

*1:それに、シャレや冗談ではない数のこのブックマーク数が存在し、またこれら多くの反応が編み出されているという事実こそは、ネット上ではもうすでにこの課題が「引き受けるべきもの」として広く受け入れられている、といえるでしょう。