しゃべる「間合い」〜人は一人では生きられないという悲劇〜

あらめて思ったけど、自分は相当「しゃべる」のがヘタだ。
話に参加するタイミングとか、話に参加しなければならない状況とか、話を成立させる意義とか、話をするということのメタ効果とかを、まったくもって正確に把握し、理解し、判断し、対応するということができていない。
とにかく、相手の状況を一瞬で把握して、理解して、判断し、対応して会話の成立に一役買って、その場のコミュニケーションを成立させるということができていなさすぎる。
とにかく、疲れているとか、体調が悪いとか、機嫌が悪いとか、用事があるとか、なんやかやあれやこれやの「自分の感じる状況」を最優先事項でもって内省的に判断し、単語的発話によって、会話の進行を途絶させる。
とにかく、何かが「知覚」できていない。
とにかく、何かが「認識」できていない。
とにかく、何かが「理解」できていない。
というわけで、今はまずその何かを「理解する」ところから何とか糸口を見つけようとはしている。
いるのだが、いずれにしろ、そもそも「知覚」ができていないのだから、いわゆる「通常」レベル、「標準」レベル、「健全」レベルに達するのはそもそも無理な話なのだ。
とはいえ、「理解」しなければならない。
少なくとも「理解」は。
「何か」が「何」であるのかを、まず「理解」しなければならない。
人は一人では生きられないという悲劇の参加者としては、「理解しなければならない」。
「会話とは相手のためにあるものだ」ということを。