「みんなと同じ」でないと「異常」であるという日本ルール

長浜2園児殺害 「送迎ルール守らぬ」 遺族、被告の身勝手さ証言
2月15日16時43分配信 産経新聞


 滋賀県長浜市で昨年2月、通園途中の幼稚園児、武友若奈ちゃんと佐野迅(じん)ちゃん=いずれも当時(5)=が刺殺された事件で、殺人罪などに問われた中国籍の鄭永善被告(35)の第3回公判が15日、大津地裁(長井秀典裁判長)であり、若奈ちゃんの母、美晴さんが「鄭被告はグループ送迎のルールを守らなかった」と証言した。

 証言によると、鄭被告は、幼稚園へのグループ送迎が始まった直後の平成17年4〜5月の間、自分の長女(6)だけを連れて戻り、ほかの園児を幼稚園に置いてくることがあった。このため、美晴さんは幼稚園を通じて再三、鄭被告に改善してもらうよう申し入れ、6月からは一時、鄭被告だけが個別で送迎するようになったという。

 美晴さんはと証言。さらに、「(若奈は)明るくて元気で、人のことを思いやる子だった。若奈を返してほしい」と声を詰まらせた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070215-00000037-san-soci


そこまでして、拒否感を表明している相手に対して、形だけの上っ面だけの一体感や仲良し感や集団行動を強制していったい何が解決するのかと。
それで得られるのは所詮、運営・管理側の合理的な手間暇の効率化であって、お金を支払う側のサービス受益を考えたものではなかろう。
それとも、「預かってやってるだけ感謝しろ」というのが、いまどきの幼稚園なのか。子供を「頭数」としてだけ見ているような感触も受ける。
それに、田舎の農家の嫁不足=無賃労働力不足を解消するためだけに、中国から「買われてきた」人に対して、昔からそこに住んでいる人間と同じ文化観や、価値観や、感受性や、精神状態を求める方がどうかしている。
そういう相手に、短期間での「改心」を強いたところで、「心からの」一体感や仲良し感や集団行動は決して得られるものではない。
その単純な事実にすら思い至らないとすれば、いったい想像力が欠けているのは加害者か遺族・関係者かどちらなのか?



「最初は普通のお母さんという印象だったが、自分勝手な人だと思うようになった」というのも典型的な心理主義的解釈。
環境的に孤立した人間が抱える精神的問題について、個人の内面だけに原因を求めるという大きな間違いを犯している。
例えば、専業主婦が抱えがちな子育て期のストレスと孤立感をすべて「個人の心の問題」=「自己責任」だというなら、今すぐ夫への愚痴をこぼす口を閉ざすべきだろう。
もし、ウチの夫は育児にも参加していると言うなら、それこそ周囲の環境によって精神的負担やストレスが軽減されていることの証ではないか。
あるいは、「そういう人間的な支えあいは家族間だけでやるべきものだ」というなら、いざ子供が被害に会うという段で突然、「地域」「地域」と叫ぶようなみっともないマネは慎むべきだろう。
「外国人妻」が一人いるような地域なら、そこにはほかにも何人かいるはずで、ならば、地域として「受け入れ」のための情報を整備しておくべきではなかったか。
それとも、外国からわざわざ嫁入りしたこと自体を「自己責任」だとして突き放すのが地域なのか。
だとすれば、「外国人妻」の受け入れに関して目を伏せてきたというその「自己責任」をこそ、地域は甘受すべきだろう。



仮に、日本人女性が言葉も満足に通じない中国の奥地に嫁入りしたらいったいどういう精神状態になるだろうか?



「最初は普通のお母さんという印象だったが、自分勝手な人だと思うようになった」という言葉が、あてはまることはないと、いったい誰が断言できるのか。



亡くなった子供たちは、「自己責任」によって殺されたのである。



これが「自己責任化」した社会の成れの果てである。