「現場主義」〜「日本ルール」記事についた最も恐ろしいコメント〜

# しゅふ 『というか、そういう子育ての現場にいなさそうな人のエントリっぽいので、論理的に説明されてても戯言にしか聞こえないなあ。自己責任が招いた事故だから子供殺されても仕方ないってことなんだろうか?よくわかんない。』 (2007/02/16 05:00)

「みんなと同じ」でないと「異常」であるという日本ルール - こころ世代のテンノーゲーム


短絡的な罵倒や定型区的な書き込みはともかく、これは、これこそは最も恐ろしいコメントである。


それは「現場にいない人間の思考や想像力はすべて無効である」という、一見もっともらしいがその実最も反社会的な考えであるにもかかわらず、「実感として正論である」と受け入れられる考え方である。


これを真実だとするなら、今話題の経済学論争など、見事にすべてがたわ言・戯れ事だということになるだろう。


ことはそれに留まらない、そもそも「現場に携わっていることだけが発言を保証する」のだとしたら、あらゆる言論はその効力を失う。
新聞・雑誌・テレビ・ラジオ、およそ報道・ジャーナリズムと名の付くものは所詮、「第三者の戯言」だということになり、やらせがどうこうという以前のお話にならないシロモノと化す。
一方逆に、広告については、その虚像性・過剰性・演出性がとみに指摘されているものであるにもかかわらず、「現場の人間が関わっている」というその一点のみで、そのすべてが「一点の曇りもない真実」として称えられるということになる。


さらには、あらゆる政治活動などもってのほかという以外にないことになる。
議員代表制?冗談ではない、現場にいない第三者の人間がいったい何を口にするというのか。
それらはそもそもすべてが戯言なのである。
期待などカケラでも抱く方がその精神を病んでいるのだということになろう。


さらにさらに、「現場」というものをよりに真摯に考えるならば、ある種の人々に共有されるとされる「子育てという現場」という概念自体が、想像の産物――すなわち戯言であることになる。
家庭校構成や、居住環境、年齢性別、経済状況、そして個性などなどあらゆる要素において差別化、細分化される「子育て」については、どう見積もっても「みんなと同じ」であることを前提にすることなどできはしない。


さらに止めを刺すならば、あらゆる点において他と異なり、あらゆる意味で独立独自の個性をもつ、この「自分自身という現場」を離れて存在する他人の意見など、すべてがすべて戯言ではないか。
「コミュニケーション」?「人間力」?そんなものは、机上の空論にすらならない空虚な空理空論であり、論外という以前の問題なのである。
戯言でしかない第三者との他人とのコミュニケーションなどどう考えてもありえない。
ありうる余地は断じて存在しない。


このように「現場にいない人間の思考や想像力はすべて無効である」という考え方は、人間が人間の体をもって生きる以上、一点のもっともらしさも留保されない根本的に反社会的な考えである。
しかし、にもかかわらず、
これが「実感として正論である」と受け入れられているのである。




<追記>
だが、この「自分自身のみを現場とする人」は確かに存在する。
それをあらわしたのが、この記事である。


「理解できない世界」
http://anond.hatelabo.jp/20070218211141


しかし、「自分自身のみを現場」としても、人間の体を持って生きていることには代わりがないのである。
変えようがないのである。