ブロガーの私が期待するマスコミ像


ガ島通信 - 「ネット君臨」問題が明らかにしたものは何か
http://d.hatena.ne.jp/gatonews/20070224/1172285964


こちら(↑)に見られる典型のように、
声高にマスコミを批判して「時代遅れ」や「不必要」だとののしっても、じゃあ、いざそれらが本当に立場をなくしてしまい、存在できなくなったとしたらどうなるのか。


こちら(↓)の指摘どおり、
適宜覚書はてな異本 - 「CNET Japan Blog - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:新聞が背負う「われわれ」はいったい誰なのか」を読んで
「正義はネットにあり」というバイアスが強すぎるのではないか。
適量を越えたカウンターはバランスを崩すだけだ。


この自己責任化した社会で、個別に切り分けられた社会で、個人単位に分割統治が徹底完遂された社会で、いったい誰が俯瞰的・鳥瞰的問題を指摘するというのか。


そうならないと踏んでいるからこそ、こうまでネットサイドは声高にその責を追及しているのだろう。


が、それでは結局のところ、肝心要の「期待」について、マスコミ自体の「自浄作用」や「世代交代」といったものへの丸投げ、投げっぱなしになるのではないだろうか。


老人が居座り続けることが問題の根源である現状では、それはおよそ期待薄、いやとてもじゃないが想像もできない。


もちろん、こうしてマスコミ世界の外にいる限りは、一人不買運動くらいしかできないわけだが、それではやはり、望むところ、意図するところが相手に通じるわけがない。


「なぜ購買をやめたのですか?」というアンケートに詳細に答えなければ、意味がない。


そこでこのネット=ブログを使って、以下、「ブロガーの私が期待するマスコミ像」への提言と批判的意見を述べる。

「不安消費」「視聴率稼ぎ」のための事件報道をやめる
>>>事件にまつわる「心情」を伝える記事はムダ


スポーツニュースをやめる、あるいは社会ニュースとは別枠で放送する
>>>社会問題のニュースに続いて「それではスポーツです!」という現状は異常


読者に対する大所高所からの(暗黙の)見下しをやめる
>>>「われわれ」を自称するなら当然のこと


ネットに対する敵視政策をやめる
>>>こちらは100万トンの重油を要求しているわけではない
>>>むしろ、敵視政策をやめればこちらから購読料を支払うつもりがある
>>>そもそも顧客を見下し敵視して成り立つ商売がいったいどこにあるのか?
>>>内心見下しているところはほかにいくらでもあるにせよ、態度が見えすいている


政策への批判・検証をタイムリーかつキャッチーに行う
>>>政治の大転換や重要法案が「祭り」や「ゴシップ」の影に隠されすぎ
>>>しょーもない迎合はいらない


個人では追求できない見えにくい社会問題を徹底追求する
>>>労働問題や雇用問題、法律問題、差別問題、政治問題等


個人が追及できる専門的な問題に関しては、協力関係を結ぶ
>>>現場報道のアウトソーシングとその検証
>>>無知を理由に書き飛ばすくらいなら、現場との関係をオンラインにする
>>>もはや信頼関係は「隠し持つ財産」ではなく「公開すべき共有知」


報道がいらないわけではない、紙がいらないだけである
>>>新聞は他の商品とのコスト・プライオリティ競争に負けている
>>>CDが携帯に負けたように、時間とお金の両面で魅力を欠いている


収益が必要なら寄付金的な制度を作る、あるいは支持されるような報道機関になる
>>>ネットの意見は未来の購買者の意見


給料を減らして人員を増やす(当然、派遣や契約でではなく)
>>>「われわれ」を自称する「担保」として必要な儀礼として


時代遅れの老人を解雇する
>>>溜まったウミを出しきる世代交代を促進する


新聞各社が合同出資して報道・ドキュメンタリー専門のチャンネルを作る
>>>今は、本物が認められる社会


マスコミに期待する姿勢を甘いと思うか?ぬるいと思うか?
だが、とりあえず不買運動はしているつもりだ。