日本仏教に哲学なし

日本の仏教者はダライ・ラマの教説を否定するだろうか。そしてその否定のしかたは、「それは仏教ではない」という否定になるのだろうか。もしそうなら、では、ダライ・ラマの仏教を否定する日本人の仏教とは何に依拠しているのだろうか。


極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/04/post_5368.html


日本仏教に核があるとしたら、それは「生活主義」と「血族主義」の二つだ。

 ところが、明治時代に入って様相は一変することとなった。明治五(一八七二)年四月二十五日、太政官布告第一三三号が出された。それは「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」(今より僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事、但し法要の他は人民一般の服を着用しても苦しからず)という内容である。この太政官布告によって、僧の肉食、妻帯、蓄髪が許された。
 江戸時代、幕府が諸宗教の布教に強い制約を設けたことによって、日本の宗教はことごとく活力を奪われていった。その一方で、寺檀制度により各寺の檀徒が固定化されることによって、僧の生活が保障されていた。この民衆救済の活力を失った宗教家たちが、明治維新後の解放感の中で、妻帯を許され、またたく間に堕落していったのは、むしろ当然の帰結といえる。


地涌144
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/04/144.html


この問題が含む最も重要な点は、「自宗派の教義的に照らした根本的な解釈を経ることなく、なし崩し式に肉食妻帯を自ら進んで受け入れた」という点である。
開祖、親鸞が妻帯していた浄土真宗だけは、その教義において妻帯が認められている。
だが、それ以外の宗派においては、結婚=妻帯について何ら教義的な裏づけというものが存在していない。
同じ浄土宗系の一派である時宗などは、開祖、一遍が妻子を捨てたことを大きく説いているにもかかわらず、である。
江戸時代に寺檀制度の下で、地域管理のための役所として戸籍管理*1と異端監視*2の役を担ったことで、図らずも経営の安定と保障を得ていたことが、この土台になっていることは確かだ。


なによりも「政府のお墨付き」ごときで、「自らが拠って立つ教義をねじ曲げた」のが現在に直接連なる日本仏教なのである。
そこに哲学があるなどと考える方がどうかしている。
また、自分が伝統仏教=日本仏教の檀家であることで「正しい信仰」を持っているなどと考える老人も世間にはいるが、はたしてそれが哲学的な態度といえるだろうか?
宗教的でも、思想的でもない、それは無知と盲信を告白しているに過ぎない。


自坊の経営と教団内での保身、それが日本仏教の大勢を構成しているものだ。
血族主義によって組織された教団では、異質な非血族の人間が哲学的関心をもって飛び込んできたところで、せいぜい仏教語変換ルーチンシステムを説法として垂れるか、聞くものにその意味を伝える努力を当然のように放棄した読経を仕込むかである。
まれに教団内部で発揮される宗教改革的情熱については、「問題」が表面化する前に体制派の数の論理でもみ消されるのが常だ。


当然のように、そのどこまでも現実肯定に終始する態度=生活主義は、異端を非難することで自らの「正しさ」の哲学的根拠としている。
個別事象としては上記の異端分子に、そして大局としては「カルト教団」であるとされるところの創価学会オウム真理教である。
言い換えれば、日本仏教とは創価学会オウム真理教がなければその足場を持たないのである。
つまり、創価学会オウム真理教があって始めて自らの「正しさ」を確認できるという、おんぶに抱っこの状態で永らえているのである。


ほか、禅などであれば生活主義的な態度が哲学にまで昇華されているではないか、という話もあるが、ならばその禅哲学に基づくならば、禅寺などというものがなぜ存在するのか。
禅が生活宗教であるというなら、寺があること自体が語義矛盾である。
ましてや、「禅的な生活」などというイメージを捏造してまで永らえようとするその態度は、禅寺のための見せかけ生活主義であって、生活の中の禅では決してない。


また、「仏教哲学」だと自認される説法のパターナリズム、その空疎さ空虚さは葬式において最大限に発揮される。
生老病死」「四諦八正道」の二つ、説法においてはほぼこれだけしか無いのである。
人間が抱える問題をただ仏教的な言葉で言い換えるだけで、説法として事足りているのである。
これほど、非哲学的なシロモノはあるまい。

殺人者をもって菩薩とするなど日本人の仏教観からすればありえないだろうし、そのような観点からこの宗教はそもそも仏教なのかという疑念すら持つだろう。
(略)
ダライ・ラマは仏教の理論からして、原爆投下が菩薩行たり得ることを可能性として認めている。
(略)
私はここで困惑する。恐らく日本人の大半も、また仏教徒と呼ばれている日本人も困惑するのではないだろうか。原爆の是非は、その投下時にはわからないというのだ。


http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/04/post_5368.html


この問題についても、日本仏教はそれほど「遠い」わけではない。
原理的には、「覚り」即ち「彼岸」を説くのが日本仏教であり、さらに現実的にはその「彼岸」ははるか西方十万億土の彼方に存在する極楽浄土として説かれる。
そこは即ち、俗世の論理を超越した「善悪の彼岸」なのである。
そしてそれは、この世で凡夫=衆生によって「はからわ」れる「善悪」などという仏という絶対的見地から見ればチリほどの価値もない思考=間違いを、極楽浄土において仏となることで=死ぬことによって獲得される覚りによって救済する、というものである。
覚りと死が結びつく限りにおいて、日本仏教は原爆投下を否定しつくすことはできない。


「原爆の是非は、その投下時にはわからない」
仏教とは、本来、この世における人間の思考を否定する原理を持つ宗教なのである。
この世における事象を、何よりその「善悪」を、人間が判断することの根拠を認めないものなのである。
「わからない」ということこそが、仏教的な哲学なのである。


だが、日本仏教はそうではない。
世俗的、極めて世俗的な「善悪」によって立ち、歴史にあぐらをかき、パターナリズムを教義とし、異端を排除し、「カルト」に逆説的に依存することで、ようやく「正しさ」を維持するというのが、日本仏教なのである。
だから、ダライ・ラマだろうが誰だろうが、原爆投下を肯定したとあれば「けしからん」と憤り、被害者感情愛国心をかき立てられるままに、教義も哲学も飛び越えて八百万の神との連携を持ち出し、21世紀は多神教の日本的宗教の時代である、つまり日本仏教の時代であると、高らかに宣言するだろう。


何のことはない、檀家に金をせびっているだけなのだが。

*1:檀家過去帳

*2:盆の棚経=檀家回り