「東洋的実践哲学」に真理なし

「型から入るのが日本的な道」だの、「実践の場を用いるのが日本的な思索」だの、「東洋的な思索・実践は西洋的な哲学などとは比較できない」だの、どれもこれも馬鹿げた寝言ポエムである。


哲学とは、「いまここ」を引きはがし、削り取り、あるいはみがき上げて、それが何でできているかということを露わにするものである。
「いまここ」に油を塗ってつやを出すような「現実肯定」を本質とする日本仏教が哲学であるはずなどないし、ましてやそれに哲学的真理などあろうはずもない。


「実践」だの、「型」だのというものを持ち出す時点でそれは明らかだ。


そのように特殊・特別・異常な事例をもって、回答に代えようとするその姿勢こそが、欺瞞的かつ詐欺的な日本的なるものの性格の根源的腐敗の表れなのだ。


いかに加飾をもって否定をつくしたところで、
「聖なる場」においてのみ――特殊・特別・異常な空間においてのみ達成・獲得される真理が、哲学的真理などであるはずがない。
それは一切、「俗なる場」に持ち帰ることが不可能なものだ。
特殊・特別・異常な空間に、芯から依存しきった思考であり態度であり真理でしかない。
それは、人にその「場」から出ることを決して許さない。


決して「俗なる場」の何たるかを切り裂き、切り叫び、切り開く哲学的真理ではない。


そもそも哲学だの思索だの、西洋だの東洋だのという対立項を立てて思考する時点で、それはそれぞれオクシデンタリズムなりオリエンタリズムなりに落ち着き、そのもっとも低級なものはナショナリズムなりエスノセントリズムなりになるしかないのだ。


「いまここ」でこの瞬間に目にし、手に触れているその機器はいったいなんだと言うのだ。
それですら日本的な意匠を持つものもあり、日本的な空間をも抱え、またあるいは「はてな的」などというエスニック(?)なものが含まれているのではないのか。


反論をするというのなら、逆説的補強にしかならない対抗事例をもってではなく、破壊的転換をもってしろというのだ。


それでなければ、破壊的「沈黙」を、だ。