ポストヒューマニズムについて

現代美術用語辞典|OCNアート artgene.(アートジェーン)
http://www.artgene.net/dictionary/cat56/post_104.html


ポストヒューマニズムPost-Humanism
「ポストヒューマン」という言葉が美術界で国際的な話題を集めたのは1992年、J・ダイチが企画した同名の展覧会がスイスやイスラエルを巡回したときである。M・ケリー、P・マッカーシー、太郎千恵蔵といった作家が同展に出品していた作品は、いずれも人工的な身体イメージを強調した「ロボット的」なものであり、同展カタログの中でダイチは「現在のポストモダン状況は、将来のポストヒューマンへの過渡的なものだ」と述べていた。ただこれは、ポストヒューマニズムの核心を生身の身体からロボットへの移行に見た粗雑な議論であって、その核心は人間の主体がどこに譲り渡されるのかを周到に論じたものでなければならない。その点できわめて示唆的なのが、アメリカの建築史家M・K・ヘイズの『ポストヒューマニズムの建築』(松畑強訳、鹿島出版会、1997)である。H・マイヤーとL・ヒルベルザイマーを論じた同書で、ヘイズはバウハウスやダダ、あるいは表現主義のデザイン原理がいずれも人間の主体の問題と強く関連しており、その問題は戦後の1960年代以降、主体のポストヒューマニズム化という形で顕在化してきたことを力説していた。もちろんこの議論は、さらに後年のポストモダンへもつながっていく。
暮沢剛巳

POSTHUMANISM
http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/bioethics/wordbook/posthumanism.html


ポスト・ヒューマニズム
(ぽすとひゅーまにずむ posthumanism)
現在の人間は、病、老化、死など、さまざまな生物学的制約を持っているが、これらやそれ以外の「人間本性」(たとえば、いくら足の速い人でも100メートルを 5秒で走ることはできないとか)を固定したものとはみなさず、遺伝子操作、ナノテクノロジーサイバネティックス、薬物、コンピュータシミュレーションなどを使用して、人間本性を変容させ、人間を「超えた」存在になることを肯定する思想を指す。昔のイメージで言えば、人造人間とか、改造人間とか、サイボーグとか、そういうやつである。

transhumanismもほぼ同じ内容を指して持ちいられるが、 Encyclopedia of Bioethicsの第三版によると、 transhumanはtransitional humanの省略形であり、人間が過渡期の存在である(それゆえさらなる完成が期待される)という見方を指す。

人間本性を変えることはなぜいけないのだろうか。たとえば、眼鏡やコンタクトレンズを用いて悪化した視力を矯正したり、望遠鏡や顕微鏡を用いて肉眼では見えないものを見ることはよくても、遺伝子操作などを通じて暗闇でもはるか先まで見渡せる視力を持つことはいけないことだろうか。 不自然だからだろうか。あるいは神を演じることになるだからだろうか。医療の目的は病気や欠陥を治すことだからであって、人体を改良(エンハンス)することではないからだろうか。一部の個人がこのようなことをすると、大きな望ましくない社会的影響が引き起こされるからだろうか (たとえば二種類の人間ができて差別や対立が起こるなど)。あるいは、それと類似しているが、人間本性に対するこのような介入は、人類に対して予測できない結果を引き起こすからだろうか。

ポスト・ヒューマニズムに対して一貫した批判をすることは簡単ではない (し、筆者も明確な反対意見を持ち合わせていない)。ただし、18世紀の啓蒙時代以降に生じた人間本性を変えようとする試みは、とくに社会制度を変えることで人間本性を変えようとしたユートピア思想やラディカルな社会主義思想は、ほとんどの場合に失敗に終わっているので、科学技術を通じて人間本性を変えようとする前に、われわれは歴史から十分に学ぶ必要があるだろう。

18/Feb/2004

広島大学文学部倫理学教室:生命操作の倫理と生命観
http://home.hiroshima-u.ac.jp/ethica/semi.pdf


このところ「ヒューマニズム」の問題について考えていて、その人間観、あるいは人間主義的な思想を解体するべく展開された理論というものはないのだろうかと思い、「ポストヒューマニズム」という言葉を検索して見たのだが、見事に裏切られた。


ポストモダン」や「ポストコロニアル」あるいは「ポストデモクラシー」という概念が、元の概念を解体分析するところから発した発展解消的なものになっているのに対して、この「ポストヒューマニズム」は、そもそものヒューマニズムとまったく別のことを定義しているように思える。


簡単に言えば、心の問題として人間を規定していた「ヒューマニズム」に対して、「ポストヒューマニズム」は突然、人間の体を機械的、あるいは生物工学的に改造することを問題にしているのだ。


この飛躍はいったいなんなのだ。
そんな根を同じくしているようにも見えないものが、「ヒューマニズム」の後継を自称していいものだろうか?
せめて、「サイバネティズム」とでも呼ぶべきではないのか。


これまで人間存在をその精神のありようで規定してきたものが、突然それを見向きもせずにかなぐり捨てて、身体加工こそが人間のありようだとするのは、やはりあまりに暴論ではないか。


心を、精神を問題としてきたものが「ヒューマズム」である。
ならば「ポストヒューマニズム」とは、その心を、精神を発展解消的に変質させるものでなければならないのではないか。