「適応」について


「普通の人間」であれば、何かしらの環境の変化に対して3ヶ月ほどで適応し、それ相応の能力を発揮し始めるのであろうが、自分の場合は3ヶ月たった時点でようやくそこから適応が始まろうとするのだということを、今のいまさらになって体で理解した。


「適応」即ち「交換」。


スムーズな「交換」ができない低脳、無価値な人間は排除されて然るべきだということか。


求められているのは、「個性」ではなく「交換可能な同質性」。


「個性的な人材」などという言葉には一辺の真実も含まれていない。


「交換可能」であれ、「同質」であれ、「部品」であれ。


規格化、工業化された「正しい心」を持つことが「人間力」であり、それを持つ者だけが「人間」なのだ。


なるほど、「心のノート」や「徳育」が叫ばれるわけだ。


「心のノート」。そういえばこれの制作に河合隼雄が関わっていたのでしたっけね。


なるほど、政府、政権、体制に「適応」した心理学者というわけだ。