「感情」あるいは「生物学的」という語の非政治性の政治性
404 Blog Not Found:感情ってハック可能だよ
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50880901.html
また、id:dankogaiが胡散臭いことを言っている。
感情を制御可能なものとするオチはともかく、その前提に「生物学的」と「合理的」を直接イコールで結んであたかもそれが非政治的な態度であると誤認させ、耳目を集めている。
それこそがもっとも政治的にいかがわしいやり口であるというのに。
「生物学的」に「正し」ければ、無差別・非差別・公平・公正・平等な「合理的」理論であるというのなら、生物学的要因によって身体に、その発達に障害を抱えた「正しくない」人間が排除されていくというのも、また合理的であることになる。
「生物学的」問題には善悪は存在しない、故に、排除は正当化される。
ならば、善悪の境目はどこに見つけられるのか。
そう、それは本人の「心の問題」、だ。
つまり、「生物学的」という表現は、その背面に道徳や徳育、即ち文化的・社会的価値判断がしっかり裏打ちされることで始めて成立しているものなのだ。
そのことは冒頭に付された正論にも見て取れる。
我々は喜ぶべきときに喜び、怒るべきに怒り、悲しむべきときに悲しみ、楽しむべきときに楽しんできたからこそ、今がある。
その「べきとき」なる瞬間が、いかに政治的なものなのか、いかに周囲の環境によって支配されるものなのか、本当は皆が気づいているはずのことだ。
それは学校や会社が決めることなのだ。
感情は自らの肉体に基づいた「生物学的」な反応などではない。
それは学校や会社が決めることなのだ。