ケータイ小説は読むものじゃなくて見るものなんだ。
それを、「コマ割り文法」とでも言えばいいのか。
potasiumchの日記:規則的な文法のゆらぎ?
http://d.hatena.ne.jp/potasiumch/20070815#1187155376
法的におかしいというのはそうなのだけど、次のように分解してみると同型の間違い(あるいはゆらぎ)ともみなせる。
(原文)二人が向かった先は地元で有名なスーパーに足を踏み入れた。
↓
二人が向かった先は地元で有名なスーパーだった。 + 二人はそこ(スーパー)に足を踏み入れた。
(原文)気がつくとそこは十字路の真ん中に二人は立ち止まっていた。
↓
気がつくとそこは十字路の真ん中だった。 + 二人はそこ(十字路の真ん中)に立ち止まっていた。
つまり文章の途中で出てくる単語(スーパー、十字路の真ん中)を介して、通常は2文に分けられる内容説明(AはBである) → 動作(Bに(が)Cした)
が単一の文になっている。
文章として読もうとすると奇妙な感覚をぬぐえないが、これを(無理やりにでも)ビジュアル表現の一種としてとらえると、なんのことはない、マンガのコマ割のひとつとしてカンタンに読めるではないか。
いや、読めそうな気がする。
たぶん、ケータイ小説は読むものじゃなくて見るものなんだ。
読者の身近にある具体的映像を示す記号を詰め込むことによって、読者の「ビジュアル解凍」時間を短縮し、さらにローカライズされた記号で飾り付けることで、書かれた内容がさも読者に近いものであると思わせるための、おそらくは無自覚のうちに形成された工夫が凝らされているものなのだ。
大人気の「ガッシボカ」に関しても、漫譜で書かれたオノマトペであると考えれば、なんら奇妙なものではない。
まぁ「パァァァァ」くらいの間抜け感は漂うけれども。
携帯電話の小画面に収まるほどの文字表現に圧縮された視覚情報が、次へ次へと視線を誘導するという仕組みが、ケータイ小説の流行と消費を支えているのだ。
その内容や表現の傾向を陳腐なものだと言ったところで、マンガやゲームの内容や表現だってとっくに陳腐化しているじゃないか。
それを文字へと還元し、さらに圧縮し、あまつさえその解凍時間を短縮するという「新技術」が施されたケータイ小説に文句をつけようというなら、その前に、文学文法の技術革新を試みるべきじゃないのか。
純文学様といったって、所詮、セックス・アンド・バイオレンスじゃないのさ。
ケータイ小説は鬼子だよ、文学=セックス・アンド・バイオレンスのな。
それとも純文学のセックス・アンド・バイオレンスは高尚なセックス・アンド・バイオレンスで、ケータイ小説のセックス・アンド・バイオレンスは下等なセックス・アンド・バイオレンスだってのか?
いやはや、シモの話に上下があるとは。