「AskJohn」への反論における宗教と政治性への批判

AskJohnふぁんくらぶ: 宗教的シンボルを平然とANIMEに使う日本人の神経!
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AskJohnふぁんくらぶ: 宗教的シンボルを平然とANIMEに使う日本人の神経!その後
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発端となった質問は実に正論だし、それに対するJohn氏の返答も実に誠実なものに思える。
しかし、なぜか盛り上がるをコメント欄を背景にした「反論」がいただけない。
人として論点がズレている。*1


とはいえ、そもそも「見ず知らずの他人の意見を集約して、それに自分の意見を混ぜて文章を作る」という作業自体に問題があるのかもしれない。
だが、それにしても

宗教テーマを取り入れることで時にはひとの心を踏みにじることもあると気が付いているのでしょうか。

という質問と

日本の作り手たちは日本国外のさまざまな文化や宗教イメージに目をつけて作品に取り入れる時、日本国外からの視点を考えに入れないで作品を作っているように思える。そう言いたいだけです。

と返す、John氏の意見の方がよほど的を射ているし、対してこの反論のよって立つ足場はあまりにお粗末な気がしてならない。


「AskJohnへの質問」に沿って問題を見ていこう。


訳者は次のような二つの例を挙げて反論する。

例えばマドンナのPV。あれは日本で失笑を買いました。芸者ルックの彼女が日本の神社の鳥居にぶら下がって歌を歌っていたのです。

ザ・シンプソンズ』の一家が東京旅行に来て相撲の土俵にあがって日本の天皇を投げ飛ばす話までありました。幸いこの話は日本では放映されなかったのですが。


そして、これら二つの例を元に

日本は外国からの視点に無頓着というご説は変です。

という「結論」を導き出しているのだが、もうこの時点でおかしい。
「だがちょっと待ってほしい」*2とでも言えばいいのか。


なによりまず、John氏が言っていたのは、「日本国内外の一部の宗教・民族から返ってくる反応」という視点である。
それを「外国からの視点」と言い換える時点で意味のすり替えが起こっているのではないのか。
そして、この「反論」のベースになっているのは、John氏の言う視点とは真っ向真逆に位置した「日本国内だけの視点」ではないのか。
「日本国内外の一部の宗教・民族から返ってくる反応」という言葉で示されていた、「どれだけ多様な反応が存在しているのか」という、異なる意見、異なる立場の人間がいることを念頭に置いた、多文化主義的な相対的視線の大切さを意味していたはずの指摘が、もののみごとに「自分がどう見られるか」という自文化中心的(エスノセントリズム)な意見にすりかわっている。
これではJohn氏も浮かばれないのではないか。


「日本国内外の一部の宗教・民族から返ってくる反応」とは、「外国からの視線」などというあたかも単一の国の政治性を意味するようなものではなく、「他者」と置きかえてもいいし、「自分以外の誰か」と言ってもいい言葉だったはずだ。
とにかく、「自分だけ」だけがわかればいい、「自分たち」だけがよしとすればいい、という閉鎖的、孤立的な内に閉じこもった視線を外へと開くこと。
自分以外にどんな意見があるのか、自分たちのもの以外にどんな判断基準があるのかということについて、注意を払うこと。
それが、「日本国内外の一部の宗教・民族から返ってくる反応」という言葉に込められた意味だったはずだ。


しかし、その「外国」という単語を盾にして、問題をアメリカ一国だけに限った「反論」が続く。

アメリカ人はどうも自分達の正義感を普遍的価値と思い込む癖があります。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が日本で放映されるたびに不愉快になります。リビア人を生まれながらのテロリストのように描いたり、日本のビジネスマンを主人公をこきつかう不愉快な上司として登場させたりしています。そのくせ物語の時代は50年代なのに黒人については戯画化するにもそれなりに好意的に描かれています。


なるほど、「世界最大のテロ国家」であるアメリ*3の精神を一言で表せば「自分達の正義感が普遍的価値」となるだろうし、

外国からの反応や視線に無頓着という点では日本のANIME界と変わらないように思います。

という指摘に関してはそのとおりの部分もあるだろう。


だが、

ハリウッド映画が少数民族に気を使うのは単にUSAがもともと民族的にも宗教的にもごったな国だから

という点に関しては、私に言わせれば日本の「ナイーブ」なアニメとアメリカ・ハリウッドの「不純」な映画とは元々の製作動機が異なっているからとしか思えない。
そもそもハリウッド映画が政治的に中立であろうはずがなく、「ハリウッド映画」とはすべて国内外に向けたアメリカの政治的プロパガンダ戦略そのものなのである。
だからこそ、アメリカの軍事的敵である、もとい敵であった[過去形]リビア人はテロリストとしてに描かれるし、アメリカの経済的敵であった[過去形]日本人は不愉快な人間として描かれたのである。


一方、日本のアニメの「ナイーブ」さについては、『かみちゅ!』のDVDコメンタリが良い実例となるだろう。
その中で監督と脚本が冗談めかして言っていた次のような言葉が「日本国内外の一部の宗教・民族から返ってくる反応」に無頓着だというJohn氏の意見を如実に裏付けている。

「政治家を批判するような話を作れば左だといわれ、戦艦大和が出てくる話を作れば右だといわれる。しかし、僕たちはオモシロイと思ったものを作っているだけなんだ」


そこには「表現の中立性」に対する極めてナイーブな「実感」が端的に示されている。
表現がなされたところには必ず観客の目によって「色」が付き、「まなざし」によって政治性を帯びるというこの社会におけるの逃げることのできない原則が、そこではまったく意識されていない。
たとえ、発言者に政治的な意図がなかったとしても、政治的な意味があることを認識していなかったとしても、そこに政治性が「ある」と判断するのはそれを見聞きする者なのである。
それを「ない」と言ってしまうのなら、そもそも「政治家の失言」などというものはこの世に存在しないだろうし、この国はとっくに「美しく」なっていたことだろう。


再び『かみちゅ!』を例に取れば、
神道をテーマにしている時点で、右翼のプロパガンダだと言われてもおかしくないし、
女子中学生が主人公のアニメという時点で、ロリコン犯罪を誘発する有害情報だと断罪されてもおかしくないし、
舛成監督作品という時点で、「生活感」重視の作品だと判断されてもおかしくないし、
倉田脚本という時点で、「セカイ系批判」だと斜に構えられてもおかしくないし、
斎藤千和が出演している時点で、「猫耳モード」だと思われてもおかしくはないのである。


何よりも『かみちゅ!』製作陣が「おカミ公認」という文句を売りにした時点で、その「ナイーブ」さを自ら暴露したようなものだ。
――作品内容に沿った「うまいプロパガンダコピー」ではあると言うことはできるが。


これは先に指摘した「ネタならいいがベタはダメだ」という問題とまったく同じことだ。

「ネタならいいがベタはダメだ」という者に聞かせたい言葉 - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20071004/p1


政治性に対する絶対逃げ切り不可能という自覚が欠如しているという点で、やはり日本はアメリカに比べて遅れている。
逆に、その自覚を有しているからこそ、ハリウッド映画はアメリカという国家のプロパガンダとして十全に機能し、日本のアニメはいつまでたってもHENTAIどもの趣味くらいにしかなれないのだともいえるだろう。
――だからこそ村上隆のような「政治的パフォーマンス」が評価されるのである。


そして、この「質問」の締めの言葉を見るに、それが最後まで内に閉じこもった視線から一歩も出ないものであったことが裏付けられる。

日本では宗教的シンボルはイスラム教徒やキリスト教徒ほど絶対神聖視はされていません。例えば、『セーラームーン』に出てくる悪役に神道の女神の名がつけられていましたが、日本では何も問題にはなりませんでした。


そもそもお話にならないのだが、あえて指摘すれば、これはまったく「自文化の自文化内での受容」という問題であって、John氏の指摘する「宗教的図像を使う場合、日本国内外の一部の宗教・民族から返ってくる反応については無頓着な傾向があります。」という問題とはおよそボタンをかけ違えた主張となっている。
これも「日本国内外」という言葉から「日本国内」という部分だけを取り出して、都合のいいように解釈してしまっているからだといえるだろう。






いったい何のための「質問」=「反論」だったのだろうかとも思うが、
日本のアニメにまつわるナイーブな政治性を示すひとつの事例としては、なるほど確かに典型的なものだということができるだろうか。

*1:人格批判ではなく、ネットジャーゴン的なレトリックですよ念のため

*2:これに食いつく人がいたら「負け」だなと思っている(親切設計)

*3:これも私という「まなざし」を通した政治的評価の一例ですね(親切設計)