障害者はいかにして生計を立てるべきかという考察について

↓この点については共感する。だから引用しました。↓

そして障害者というのは、言うなれば手持ちの資源がとても制約されていて、かつかつで生活せざるを得ないので、生計に関する意思決定がほとんど自動化して(選択の余地を意識化する暇なく目の前の課題にぶつかるしかないから)、計画とか合目的性とかを改めて吟味する余裕がないだけで、本来はそれを、もっと資源に余裕のある健常者以上にシビアにしっかり考えなければいけないのにそれが出来ていないだけなのだ。言うなれば、金持ちは財テクをするのに、低所得者は節約を考える精神的余裕を失ってしまっているような状態ですな。だけれどもどちらもやるべきことはマネジメントで、しかも資源が乏しい障害者のほうが、実はもっとずっと緻密にやるべきなんですよ。


それが出来ていないとどうなるか、というと、障害者福祉に関わる人たちが「自腹で」取り敢えず破綻を避けるために持続可能性がないスタイルであるにもかかわらず自前の資源を投入してしまう。そうすると資源の再生産が追いつかないから、当然その人は破産する、ていうかそれはつまり「燃え尽きる」わけです。だって、関係者が自前の資源の持ち出しで関わっているのだから、事業としてはサステナブルではないんだから。ではなんでそれで福祉のシステムが目に見えて破綻しないかというと、後からまだその可能性を知らない若い人材が入ってきて、燃え尽きるまで持ち出してしまうから当座システムが存続してしまうのです。


人間誰しも尊厳を維持するためには、ある程度の財を必要とするし、社会に貢献できる関係性を構築できなければつらい。それは健常者も障害者も同じなのです。


障害者を工業化 - 福耳コラム
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20071207/1196990441

しかし、だ。

しかしそれが難しいことを以って、福祉の分野には、そういう経済性を伝統的にネガティブに見る人が多いようである。それはだって、なかなかそういう状況に適応できず苦労をしているから無理もないのですが、しかしそれは背負う荷物が重いから万有引力を憎悪するようなもので、経済的現象を否定すれば経済的現象の外に行けるわけではないのだ。


定型身体と定型思考を基準とし、すなわち非定形身体と非定形思考を排除することで「合理的」に運営される「経済」と、あらゆる物質に対してその質量に応じて全く同質な負荷として存在する「重力」を同じものであるかのように語るそのアナロジーは、差別性を正論の中に滑り込ませるきわめて政治的な発言であることは指摘しておかねばならない。


やはり、経済学者は利己的なのだろうか、な。


またあるいは、自らが非定型的存在であることを自覚せずに、自覚できないまま、「自己責任」の名の下にあらゆるハンディを認められず、定型的社会からよくて阻害、悪くすれば排除されているものがいる。
それというのは、いわゆる障害者福祉の範疇にすら入っていないわけで、それを「発見」することが、社会福祉的には追求されなければならないはずのことだ。
が、それが政治的社会的に「無駄なコスト」として認識されるならば、一端、生れ落ちた時点で重大な格差を持って生まれてしまったものはその時点で「負け」の刻印を押されているという社会になるわけである。
だとすれば、それはきわめて巧妙かつ狡猾な優性思想が、「政治的健全性」としてこの国に組み込まれているということにもなるのではないのか。


そしてそれを「経済」の「重力」効果だというのなら、なるほど経済学者というのは利己的な存在だというわけだ。


たまたまうまくいった人間は、たまたま失敗した人間が存在することを理解しない。