「原因」としての発達障害、「症状」としての人格障害<id:iDESさんのコメントへの返事として>

先天的かつ肉体的原因に基づいた要素の多い発達障害の方が、障害診断における上位概念であり、
後天的かつ環境的原因に基づいた要素の多い人格障害の方が、下位概念であると整理した方が、
よほどスッキリすると思うのだが。


「発達」と「人格」はなぜ択一処理されるのか? - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20071209/p2

上の2行をさらに突っ込んで言うなら、「発達障害が原因」で「人格障害は症状」なんじゃないかという感があります。
とかくこのあたりのあいまいな線引きを、いっそ「発達障害」という大枠でくくってしまって、
その上で、分析された個々の状況を「症状=人格状況」とでも言うようなものに収める方がよほど混乱をきたさないだろう、というのが今の考えです。


なぜなら、「こころ」は政治的=偏見的な価値判断によって左右されるものですが、「肉体」は医学的=即物的=客観的≒公平な判断がまだ下されるものと思うからです。
個々の人間が抱える問題について「こころ」を前面に押し出せば押し出すほど、それは差別を、偏見を引き寄せる隙になります。
ならばいっそ、その身に刻まれた瑕疵をこそアピールするべきなのではないでしょうか。


また、id:iDESさん@井出さんは以前から
>ひきこもり=広汎性発達障害という認識が生まれることによって不適切な援助が起こる
という点を問題視されてますが、
むしろ、ひきこもりという症状をことさら「過大視」し、その症状に対してのみ援助するよりも、
もっと根源的に、発達障害の枠組みで拾い救い上げていく方が日本社会の世間的現実に照らして、より現実的なのではないでしょうか?


ひきこもりの発達障害認定を忌避するようなスタンスは、どこか「人格障害はこころの持ちようで直るよ!」と言っているようにも見えます。


現実には人格障害に対しては薬物治療があるわけですし、
ひきこもりにおける最大の問題が社会との接点が切れたことだとするなら、医療という接点を通じて「回復」する道をことさら否定する、閉ざすことにどんなメリットがあるのでしょうか?


また、障害認定によって起こる「なおる/なおらない」の踏み越えたら戻れない一線、というのがデメリットなのだとすれば、
この日本という国で一端つまづき引きこもってしまい、社会に敷かれた標準的レールから一ミリでも外れてしまえば、悪鬼悪霊のごとく唾棄され、忌避されるという「美しい伝統」がある前で、いまさらいったいそれがなんの一線になるというのでしょうか?


その一線を危ぶむ理由が「当事者の心のケアのため」だというなら、それもどこかおかしな話です。
それこそまさに「こころの問題をこころの持ちようで直せ」というようなものではないですか?
(そのためにまずはこころを落ち着かせてひきこもり状態を安定させろ、というような)
症状を症状としてかき回すよりも、もっと根源的な、肉体的な要素に注目して、そこにある問題を解決していくという方が、やはり現実的に思えます。


あるいは、「ひきこもり」者が固定的、非行動的、家庭的な状況にあるの対して、
発達障害」者が流動的、行動的、社会的な状況にあるという差異があり、
そこに井出さんが重点を置かれていることが、「不適切な援助」問題へのこだわりとなっているのかもしれません。


しかし、もし井出さんのこだわりが上記の差異にあったとして、
「家から出る」のが「ひきこもり」者のゴールではない以上、薬物治療をも含めて「発達障害」者に対するのと同じケアが施されてもなんら不都合とはならないのではないでしょうか?


その点が、以前から気になっている点で、
井出さんはいったいなぜどういう理由でこの「不適切な援助」を問題視=「過大視」されているのでしょうか?


どうしても腑に落ちないので、お時間がありましたらお答えください。



<追記>
とか何とか言ってるうちに井出さんの意見でそれっぽい部分を見つけた。

発達障害の問題を考える時に重要なのは、問題のどのくらいまでを子ども自身の障害として考えられるかということである。現れた現象をすべて子ども自身の障害へ還元すべきではない。障害という概念は、親の教育の責任も、教師の力不足の責任も、本人の努力が足りないからだという批判もすべて回避させることができる。関係者にとっては願ってもない概念である。そして、それは本人・親・教師・医者などの関係が円滑になる機能も持ち、治療的でもある。


そのような臨床的機能を評価しつつも、やはり社会病理を子どもの障害にすり替えているだけに過ぎないという根本の所は押さえておく必要がある。なぜならば、社会の変動によって起こってきた現象は社会政策的なアプローチによってのみ改善するからだ。既に「ひきこもり」になったり、「発達障害」になったりしている人たちに対応するだけではなく、これから「ひきこもり」や「発達障害」になってしまう人たちを防ぐことも必要とされることである。そのためには、心理学化についても批判する必要が出てくるように思われる。


斎藤環「『ひきこもり』の現在形 - sociologically@はてな
http://d.hatena.ne.jp/iDES/20071129/1196319358


でもやっぱり妙な印象は残る。
「そのためには、心理学化についても批判する必要が出てくるように思われる。」という締めの言葉だ。


「障害の*1を社会病理として解釈する」こと自体が、「心理学化」の思考パターンになっているのではないのか。
この点は問題分析の視点が自家撞着を起こしている気がしてならない。


障害=医療アプローチを「社会病理を障害にすり替えている」というが、社会福祉政策を引き出す道筋としても医療的なステップを踏む方がより現実的=近道なのではないのか。


社会病理は社会福祉政策を引き出してこそ解決されるのだとしたら、「社会病理としてのひきこもり」アピール=戦略は、それこそ斉藤環の言う「実効性の低いスローガン」に終始してしまうのではないのか。


ならばこそ、戦術としての障害=医療アプローチの有効性を踏み台にしてこそ、戦略的なアピールが実行力を持つのではないのか。


井出さんの主張はどうも肝心なところで奇妙だ。


あるいは、統計的に現れている先進国における発達障害者(自閉症)の増加という現象を、「発達障害というカテゴリの認知度が上がったからに過ぎない」と断じることもできるだろう。


しかし、その統計的な数値の上昇そのものを「現実」=社会状況であるとしてとらえれば、「障害のせいにするな!」という主張こそ、「人間力」的あるいは「自己責任論」的な精神論、根性論に近づいていくものなのではないのか。


井出さんの主張はどうも肝心なところで奇妙だ。


その印象がぬぐいきれない。

*1:ほとんど