すべてが静かなテロになる


だがそのための、「沈黙」だ。いや、それこそが「沈黙」だ。

「羊狩り社会」をぶっ壊せ - 雑種路線でいこう
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20080119/moko


ロスジェネは誰と闘うのか - 雑種路線でいこう
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20080106/lostgen


なるほど、希望がある限り――「自分だけはいつか助かるかもしれない」という希望がある限り――


希望を求める人間が滑稽な踊りを踊るしかないというのがよくわかった。






赤木が言う、「<希望>は戦争だ」。
まるで、気分は震災ボランティアだ。カタストロフ、大災害を前にして、そこでなら自分が活躍できるとでもいうのか。
そこで口にされる戦争とは、何と何の境界にあるものでも何ものでもない。まして、自衛隊だの徴兵制だのとは全く一線を画した、想像上のただの敗戦だ。「災害の最上級」としての戦争だ。
そして、「打ち負かされるだけの自分」を共有したくないのなら、「打ち負かされた自分」を抱えて国家が生き延びたければ、自分を助けてくれと言う。
ああ、国家は生き延びるさ。資本主義型ロケットはいつでも大量の燃料ブースターを切り捨てて目的地へと向かうものだ。
これは脅迫にすらなっていない。なんという哀れさだ。



雨宮が言う、「ひきこもりは革命だ」。
自分が親を殺すか、親に自分が殺されるか、そのいずれかの「結論」がつきまとう地獄を前にしてなんとおめでたいことか。
ジコジツゲンを成しえた人間の甘い毒。それが甘いということに気づかないものすらいるような毒。
味覚、感覚、神経が麻痺した人間に、与えていいものでもなければ、与えるべきものでもない。
誰が誰を犠牲にしているのか。
誰の何のために誰が犠牲にされているのか。
「卒業」するアイドルユニットですら、もう少し自覚的だ。



フルカツが言う、「モテない人間に配偶者を」。
甘やかな希望に最ももろい共闘を声高に呼びかけるのは、すでに甘さを知ったものだけにできることだ。
だが、せめて迷彩を着るべきだった。少なくともヘルメットにマスクはないだろう。
それが、まだしも現実的な衣装というものだ。それでは強盗ですらない。
とはいえ、「皇居に向かって敬礼」すればいいというのも出涸らしに過ぎる話だ。
そう、なにより芸を芸と自覚しないまま、芸を芸として完成させないままにサーカスを街へ繰り出しても、パレードが崩壊し、象がライオンが暴れだすのは自明のことだった。
何を続けようというのか。
まだ何も出来上がってはいないというのに。






もはや、希望など、まして共闘など藁以下の価値しか持たない状況なのだ。


だがそのための、「沈黙」だ。いや、それこそが「沈黙」だ。


もしすがるなら、自分だけ。自分が自分にすがるだけ。


藁と藁とを結わえ付け、我と我が身を縛りつけ、自己保身、自己保存、自己責任――それが希望だ、共闘だ。


叫びたければ希望を叫べ。それはこだます「沈黙」となろう。


立ち上がるというなら共闘しろ。それは影さす「沈黙」となろう。


生き延びるためには「沈黙」を、そしてその「沈黙」が生む破壊。


すべてが静かなテロになる。「沈黙」がすべてを破壊する。