「公共学芸会劇団」としての宝塚とアイドル商法

女が女を演じる―文学・欲望・消費

女が女を演じる―文学・欲望・消費

『女が女を演じる』の新聞書評を読んで、昔、演劇を研究していた友人が宝塚を見て「下手だ!!何であんなに下手なんだ!!」と叫んでいたことを思い出した。
なぜ、神格化されているほどの演劇エリート教育を受けているはずの宝塚が、その友人をして「下手」だと言わしめたのか。
長らく疑問だったのだが、この段を読んでそのなぞが一瞬にして解けた。

ジェンダー規範の確立過程を映すものとして、樋口一葉に対する見方の変遷が興味深い。生前から没後すぐの明治二十―三十年代初頭までは、その非凡で鋭い着想から本当に婦人の作品か疑われるなど、一般の女流とは一線を画す存在という評価が主流だった。だが、四十年代に入ると「男には到底まねのできぬ特色」が表れた、あるべき女流作家の典型として語られるようになる。男性知識人は、既に無視できない数に上っていた女性の書き手に一定の承認を与える代わり、自分たちの領分を侵さない特殊な場所に隔離したのだ。
明治四十年代は、文学の自然主義を筆頭に「自然」という理念が浸透した時期でもあった。これ以降、女性表現者に「自然さ」、つまり素人性を求め、論理や高度な技巧をおとしめる抑圧の構造が出来上がる。大正期には新鮮な新人が次々と入れ替わる宝塚少女歌劇団が人気を博す一方、演技の技量を上げた松井須磨子には「内に理解があってその理解から自然に流露した自然ではなく、口だけでもっともらしく自然らしく言おうと努めている」といった非難が浴びせられたという。


京都新聞3月23日(日)、評者:大塚明子・文教大准教授>


伝統芸能である宝塚歌劇団においては「学芸会レベル」であることが、「宝塚らしさ」そのものだったのだ。
「女子供らしい女子供らしさ」を隔離された環境で維持し、再生産することが宝塚というシステムなのだ。
「清く・正しく・美しく」というドグマは、まさに「自然な女子供らしさ」の再生産装置なのだ。


それは「「女子供らしさ」はそれに対置される「恋愛」によって簡単に破壊される」という裏のドグマを通じて、「処女性」あるいは「童貞性」を商品としたアイドル商法ともつながっている。
『わたし「だけ」が「選んだ」アイドルの成長を支える』という消費心理は、モーニング娘。やジャニーズjr.のものとしてよく知られているが、宝塚はその原点だったということだ。
またネット上では、AKB48のおそるべき焼畑農業ならぬ、焼オタ商法*1への非難が叫ばれてもいるが、現時点でAKB48に「処女性」が確保されている以上、その商売はどこまでも続くのである。*2
その意味では、「非処女」で「中古」になった人間を「卒業」という名目で切り捨て、新たに「処女」を補充するハロープロジェクトが、宝塚のリメイク商売としていかに「正しかった」かということがわかる。


消費を通じた1対1の「擬似恋愛関係」を切り売りすることがアイドル商法の核だとすれば、そのアイドルが「自分以外の誰かのもの」になったことが明らかになった時点で、商売そのものが破綻するのである。
それを回避するためには、補充が欠かせない。
「卒業」というメタファーは、メンバーの脱退を美化するためではなく、楽屋裏の宝塚音楽学校*3を形作るために必須のものだったのだ。
逆に言えば、「できちゃった結婚」というのは、アイドルがその経済に絡め取られた抑圧から自己を解放するための、まさに問答無用の最後の手段だったというわけだ。


とはいえ、それが抑圧するジェンダーからの解放を意味しないどころか、ジェンダーへの回帰を目指しているところがまた、おもしろい(?)ところだ。
「卒業」のための「ゴール」として目指される「お嫁さん」がジェンダーイメージでなくてなんだというのだろうか。
それにはおそらくハロプロメンバーがいわゆるDQNであることが深く関わっている。
ある種、教育課程の産物として形成されているジェンダーフリー意識について、早期に教育課程から*4ドロップアウトするDQNが、それに触れる機会などほとんどないであろう。
結果、彼らは伝統的、固定的、保守的なジェンダー感を維持し続けることになる。
そこには、「処女」ジェンダーから「良妻賢母」ジェンダーを渡り歩く、「健全」なジェンダーロールプレイヤーとしてのハロプロメンバーの姿が浮かび上がる。
そして、その道のはてには「反知性主義的で扇情的なマスコミご意見番」というポジションが、しかと存在している。*5


このことから分かるのは、ジェンダーと経済システムとの密接なかかわりである。
また、そのパラダイムの移行の困難さである。
ジェンダーだけを取り上げても、その背後にある問題――社会問題や経済問題との関わりを無視してそれだけを解決することなどできない、ということである。




件の友人に関して言えば、劇場の前半分、舞台の上を主にテーマにしていた人なので、劇場の後ろ半分、観客席をも含めて研究対象にされる宝塚とは、そもそも相性が悪かったのかもしれない。

*1:焼オタ商業という方がいいのか。どちらにしろなんか凄い絵が脳裏をよぎって見えたんだけどキニシナイ。参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%BC%E7%95%91%E5%95%86%E6%A5%AD

*2:詳しいことはぜんぜん知らないけどそうなんでしょう

*3:というシステムと、そこから生み出される宝塚歌劇団の第何期生

*4:望むと望まざるとに関わらず

*5:その椅子の数はさておくとして