「学校」化した社会――「自衛隊教育機関説」の終わり

自衛官“人を殺して死刑に”
http://www.nhk.or.jp/news/t10014143511000.html


22日未明、鹿児島県姶良町でタクシー運転手が殺害されているのが見つかった事件で、殺人の疑いで逮捕された19歳の自衛官「人を殺して死刑になりたかった。誰でもよかった」などと供述しているということで、警察でさらに詳しく調べています。


老害右翼ジジイどもに大ジョッキで苦渋を!!!


これは劇的なニュースだ。


「心」も「体」も「愛国心」も鍛えられているはずの「愛国青年自衛官」が、あろうことか「心の闇」に飲まれ、意味不明で理解不能な「無差別件殺人事件」を引き起こしたのだ。


これを笑わずしてなにを笑えと言うのか。


「美しい日本人」だと思い込んでいた者の本心が「人を殺して死刑になりたい」だったのだ!
この事件は、もはやこれ以上語る必要がないほど証明してくれる。


老害右翼ジジイどもの信念にカケラも現実味がないということを。


そして、もはや今日以降「自衛隊に放り込んで心をたたき直せ」という妄言が繰り返されるたびに、この事件が「答え」として持ち出されることを。


そして、老害どもがこれを「一部の不届きな異常者がはたらいた例外」だとして見なかったことにすると言うのなら、そもそも「不穏分子としての若者」観を語ることそのものが、自己矛盾となるだろう。
それとも「一部の不届きな異常者」である「不穏分子としての若者」の中にさらに「一部の不届きな異常者」を見いだすとでも言うのか。
だとすれば、それは自ら「正論」が非合理的な狂信によって成り立っていることを証明するだけだ。
にもかかわらず、強弁を続けるというのか?
それもいいだろう。
どうせ、また誰かが殺されるだけの話だ。
そう、「テレビの向こうのどこか」で「自分ではない誰か」が殺されたのを見て、ビールでも飲みながら「昔はよかった」とつぶやいていればいいのだ。


何という「美しい」光景か――






だが、それは本題ではない。
今日のこの事件は、ささやかなオマケに過ぎない。
いったい何の?
延々と放置され続けることで脈々と受け継がれてきた学校殺死の系譜によって生み出された、完成したスクールキラーの、である。


まず確認しておこう。
これまで主として学校をターゲットに発生してきた殺人傷害事件、それが学校殺死の系譜である。
日本社会はそれを学校にのみ存在する問題だとして、言い換えれば学校の中で完結する小さな問題だとして、警備を強める、すなわち「門を閉ざす」こと、ただそれだけで問題を終わらせようとしてきた。


だが、その「門」は先日の茨城・岡山という二件の事件によって、完全に打ち砕かれた。
今日のこの事件は、それをほんの少し上書きしたに過ぎない。


だが「誰でもよかった」という言葉の重さを理解している人間は、日本にいったい何人いるのだろうか。
――少なくとも、老害右翼ジジイどもの中には一人もいないだろう。


「門」を閉ざしていれば、学校の中は安全だ。
学校の中が安全ならば、社会全体も安全だ・・・・・・?


そこには完全にある視点が欠落している。
「被害者の予防ための視点」だけが強調され、「加害者の予防のための視点」が完全に消し飛んでいる。


それはなぜか?


それに対する答えこそがまさに「それが一番効率的だから。」である。


一人や二人の異常者が生まれ、それがどれだけ「衝撃的」な事件を起こしたところで、それによる被害者はせいぜい一人から数人程度の小規模なものに止まるからである。
また、たとえ死者を含む被害者が複数でたとしても、少数の人間が死んだところで社会全体としては何の問題もないからである。
そして何よりも、いつも事件は「テレビの向こう」で起きるのであり、誰も「自分だけは死なない」と思っているからである。


わずかばかりの異常者に目を向けるより、無視してしまう方が多数派の生存にとっては効率的だというわけだ。


これを一言で言ったものが、「運が悪いやつは自己責任だ」というものだ。
今までもそしてこれからも、この日本で、ある日殺された「自分ではない」被害者は、まさに「たまたま運悪く殺された」のだとして、切り捨てられ続けていくだろう。
まるで、「たまたま運悪く殺す」しかない状況に追い込まれた加害者のように。


「内省的に完結する自己責任」という観念、否、信仰を抱いている限り、被害者と加害者はどこまでも同じ地平に存在することになるのだ。


ならばそこで、 きみはこう言いたいのでしょう。


「門」はどこだ!と。


そんなものはもうとっくにはるか背中の彼方だ。
そして、その門にはこんな言葉が刻まれていたのだ。




「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」




もはや、社会全体が「学校」化したのである。




お家に帰ってからも「学校」です。




「学校」へようこそ。