マジ サルトル?サルトルが許されるのは日本の大学の中だけだよねー


という酷いタイトルを補うまともな内容の文章が書ければいいのだが、いま絶対に無理。

合法性が正当性を虐殺するとき
『情況』2006年1・2月号, 情況出版(p.81〜93)
永野潤

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/ronbun/gohosei.html


一読し、およその理解もしたつもりだが、サルトルが有効だったヨーロッパでは、その「サルトル」を許容するベースとしての契約社会観があったからこそだろうと思い、その割にヨーロッパにおいてサルトルに学術的評価はないというお決まりの文句を思い出しもした。
翻って日本はというと、そもそも「サルトル」を許容するベースとなるはずの社会が根底から存在しないにも関わらず、大学なり文学なりの世界では、時に時代遅れの代名詞ともなりながらも高い評価を保っているようだ。



なんの冗談だこの状況は。



選挙=投票行為が、社会の成員たる人間を選挙権を認められる市民と選挙権を認められないホームレスのような非市民に分断し、さらに一人一票という最小単位にまで個別化される、と。
それを補完するべく発動するのが、選挙=制度を構築する法を超える、「野生の法」=暴動であると。



さて、ではこの日本で無知・無理解・無関心の鉄壁の防護壁をつくりあげ、お国=国体の護持に謹んで奉仕しているのは一体誰なのかと。
それは、紛れもなく「無差別」。
「無差別殺傷事件」の標的となる一般市民だ。



政治家に官僚に愚痴を垂れつつ、司法に警察に寄り添い、連れ添い、媚び従う。
唯一覚えた政治の言葉が、「自己責任」の一言だ。



社会にはぐくまれるべき「野生」など、とっくにコンクリートの海に沈んでいるのだ。
「死に損ない」が生きている様がテレビに写る度に、「まだ生きているのか」という大合唱。
選挙に行こうが投票しようが、そこにいるのは二世、三世、生まれついての法の世界の住人ばかり。
個々人で、持ったつもりの意志も意図も、あっという間に回収されて、見事に国体が維持される。
そして、這い上がったつもりのキチガイが知事になれば、大声で叫ぶ「自己責任」。



しょせん、輸入された手段や方法が、日本でしかない、日本以外ではあり得ないこの日本に、適用などできるはずがないのだ。
日本が日本であることをやめない限り、日本であることが不可能な状態にする以外に、およそ日本と呼ばれるものに変化をもたらすことなど不可能なのだ。



だから、みんな[死ねばいいのに]。



伝統を捨てろ、文化を捨てろ、民族や、宗教や、習慣を捨てろ、日本と名の付くすべてのものに背を向け、手を切り、関わりを捨てろ。
そしたら、その空いたスペースに、別の何かがやってくるだろう。



別の誰かが。