仏教用語における「諦」の説明の仕方について


「諦」という漢字に引きずられて「あきらめる」などという翻訳=説明の仕方をするから、訳語の否定的なニュアンスに引きずられて、そこで語られている思想がまるで意味がないものであるかのように受け取られるということが、仏教解説の常となっている。


「諦」とは、「絶対観」と訳すべき言葉であって、善悪二元論を達観したメタレベルの認知行為のことである。相対的な認識とも言えるか。


こんなことはもう何十年何百年単位で引きずられた日本語の誤訳の問題であって、もっといえば教典を日本語訳しなかったことのツケの問題であって、いい加減一般常識的なレベルで翻訳=解説の差異の初歩的な作法として周知されるべきだと思うのだが、仏教=教団そのものが、江戸以前と江戸と明治以降でまったく性格を異にしているという背景もまた理解されていないことも相まって、日本仏教は思想的に相も変わらず混乱の極みにある。というか思想的価値はほとんどない状態だ。


日本仏教の宗教教団として性格は基本的に中世で終わっており、江戸においては戸籍管理=思想管理を委託された公社的な存在だった。かつ江戸までには大学≒教育機関としての機能も持っていたが、明治以後はそれすらも失われ、あるいは外部化され、日本仏教教団は自己保存を目的とするだけの組織になったというのが現実的な理解だ。


そういう背景があるから、仏教用語の解説などをいくらしても「坊主丸儲け」のイメージが決してぬぐい去られず、「難しいことなんかわからなくていい」という浄土系信仰が生んだ=迎合した日本的な空気とも相まって、二度と再び仏教が日本で思想として浮上することがない仕組みになっている。まあ、そもそも一度だって日本仏教が思想として広まったことなどあったのかどうかすら疑問だが。


またそうした状況への不満疑問が、そのまま新宗教の基盤ともなっていることも初歩的な認知の問題だ。新宗教教団のほとんどは、仏教批判または仏教改革の下に誕生している。もちろんキリスト教系はまた別だ。


まあ、幸福の科学の場合は仏教とキリスト教という二つの宗教をもうこれでもかと言うほど通俗的なレベルで融合させた「合体新宗教」なわけであり、政教一致を掲げる所などは、イスラーム的であるとも言えるので、まさに「ウルトラスーパー合体新宗教」だといえる。とまあ、こんだけいろいろなんでもアリにしておけばさぞ敷居も低くなって信者の獲得どころか世界征服、もとい世界宗教になることだって夢じゃないんじゃないかと思うんだが(思わないけど)、まず言うことが「北朝鮮のミサイルから日本を守ります」だって。なんというスケールの小ささ……


そうか、これが「諦」か。(最初に戻る)