Togetter - まとめ「マジックワード「手痛い体験」の脱神話化」

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マジックワード「手痛い体験」の脱神話化

watarlooいきなり「空手かボクシングやれ!」はたしかに面食らうなあ。 RT @kazugoto :[B!] Togetter - 今一生氏とumetenとのやりとり http://togetter.com/li/14501
kazugoto@watarloo 「当事者」系の人の経済観や労働観って、結構危ないところを行っているものも多いんですよ。ただ、この御仁の場合、ある程度予想できたことでもありますけど。
kazugoto@watarloo 訂正:「当事者」系の人→「当事者」系の若者論者
watarlooこういった類を「当事者系」と呼ぶのが適切か? は別として、危ういですよね。 略RT @kazugoto :「当事者」系の人の経済観や労働観って、結構危ないところを行っているものも多いんですよ。> http://togetter.com/li/14501
watarlooなるほど、「若者論」者ということですね。たしかにありがちですね>自己責任論と同じことを言っていることに無自覚なところ @kazugoto
umeten技術訓練を受けてもそれを行動に一般化できるかどうかは別だと思うのです RT @watarloo: いきなり「空手かボクシングやれ!」はたしかに面食らうなあ。 RT @kazugoto :Togetter - 今一生氏とumetenとのやりとり http://bit.ly/ayCh
watarloo結局、「軍隊に入れ。徴兵制敷け」と同じにすら聞こえてきます>「現実感覚の希薄さ」なるものを”体験”で得ろという主張 @umeten @han_org
han_org@watarloo @umeten ぼくは逆に希薄さを体験してみたいんだけど、それはともかく、軍隊に入ったら「生」を実感できるっていうのも神話じゃないのかな。
bando_alpha寝技のほうがねちねちして一般化しやすいので、ブラジリアン柔術マジお勧め RT @umeten 技術訓練を受けてもそれを行動に一般化できるかどうかは別だ
と思うのです RT @watarloo: いきなり「空手かボクシングやれ!」はたしかに面食らうなあ。
watarlooええ。同様の神話には「格闘技やればいい」「トイレ掃除やればいい」というバリエーションもありますね。 RT @han_org :軍隊に入ったら「生」を実感できるっていうのも神話じゃないのかな。
whimitsu@umeten 「手痛い経験」とは、「自分が決して敵わない高度な人間と出逢って、自分の小ささを思い知らされる経験」でしょう。それは知識教養や学習成績でも、人格や他人との付き合い方振る舞い方でも、何においてであってもかまわない。QT @conisshow /12206914308
umetenうーん「透明な存在」ってなのとはまた違うんですがね RT @watarloo: 結局、「軍隊に入れ。徴兵制敷け」と同じにすら聞こえてきます>「現実感覚の希薄さ」なるものを”体験”で得ろという主張 @umeten @han_org
umeten一般化の意味が特殊な方向にずれとるがな RT @bando_alpha: 寝技のほうがねちねちして一般化しやすいので、ブラジリアン柔術マジお勧め RT @umeten 技術訓練を受けてもそれを行動に一般化できるかどうかは別だ
と思うのです RT @watarloo: いきなり
umeten「部屋を片づけろ」も追加で RT @watarloo: ええ。同様の神話には「格闘技やればいい」「トイレ掃除やればいい」というバリエーションもありますね。 RT @han_org :軍隊に入ったら「生」を実感できるっていうのも神話じゃないのかな。
umetenある種のマジックワードであることは分かってきました RT @whimitsu: @umeten 「手痛い経験」とは、「自分が決して敵わない高度な人間と出逢って、自分の小ささを思い知らされる経験」でしょう。それは知識教養や学習成績でも、人格や他人との付き合い方振る舞い方でも、何にお
umeten「手痛い体験」というのは、多分一般化できない。むしろそれができるというのなら、それはなんら「手痛く」ない一般的な体験に過ぎないのではないか。
umetenでは何が「手痛い」のかというのをむりやり一般的に言えば、修正不可能な確定的な事故のように降りかかってくる「個々別々の災難」ということになろうか。/だからこそ、たかが失恋やたかが宗教セミナーで目覚めたりする人間がいたりもするのだ
umetenしかし、<修正不可能な確定的な事故のように降りかかってくる「個々別々の災難」>とは、またどんな状況でもそれを記述可能なマジックワードでもあるので、本来の「手痛さ」とはすこし外れてしまっているかもしれない。だがそうなのだ。
umetenが、それならなば、それは何も若い頃にだけ起きる出来事ではなく、生きている限り、いつ何時でも身に降りかかってきておかしくない出来事が「手痛い」というものだということの裏返しである。
umetenではなぜ「それ」=「手痛い体験」がはやければはやい方が良いとされるのか。一つには性愛的な文脈でどうにかなってしまうようなそうが人口の過半数を占めていることから、さっさと恋愛しろ、セックスしろというごたくレベルのものとして、流通させやすい土壌があるということだろう。
umetenもうひとつは、もちろん就労である。一回きりの新卒採用試験機関に合格しなければ二度とまともな社会に参加できないようになっているこの日本では、実質的に18〜22歳までに「手痛い体験」をクリアすることが、絶対必要不可欠の暗黙の了解と化している。
umetenでは、逆に問おう。その年齢を超えた人間が、越えてしまった人間が「手痛い体験」を急かされる理由とは根拠とは一体何だろうか?
umetenなるほど「適わない相手」に出会うことも一つだろう。しかし、それで奮起して自分もそれにならって近づこうとするものもいれば、逆に、殻に閉じこもって安全策をとるものだって普通にいるだろう。いずれにしろ可能ならば、その反応は二種に別れる。
umetenさて、「手痛い体験」はこの二種の人間にどんな「影響を与えた」と言えるのだろうか?「手痛い体験」が人間に影響を与えるということは、まずあるだろう。しかし、それは個々人の心理的な解釈の差異によって、一般的どころか特殊特別千差万別な反応へと分岐分散分裂していくのが普通ではないのか。
umetenだとすれば、やはりそもそも唯一の解のようにして「手痛い体験」というものが提示されること自体が、個々別々の事情を抱えた、千差万別な環境に取り巻かれた当事者に対する、暴力そのものではないのかと言うことだ。それがしかもたかが発話者の体験を当事者に押しつけるだけに過ぎないものだったら……
umeten今一生さんの話オチは確かにバカマッチョだった。だが、私は氏に決して悪い印象は抱いていない。それがこの「手痛さ」にまつわる問題の核なのではないのか。要はどんな年齢のどんな体験であろうと「手痛い」ものになる以上、その「体験」=関わりを構成する人間、環境としての他者こそが重要なのだ
umetenだからこそ、ここまでこうして語りを重ねてようやく今ここに言える。
「空手やボクシングをやるような連中を根本的に信用してないのでそんなのは絶対にお断りです」と。
腐れ文化系の人間が、多数派の体育会の中に飛び込んで一体なにが起きるというのか。わからない奴はいるまい。