一方、大阪は「愛国心」を使った

大阪維新の会:教育条例に「愛国心」明記 9月提案 - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/today/news/20110817k0000m040139000c.html


2011年8月17日 2時30分

 大阪府橋下徹知事が率いる首長政党「大阪維新の会」が9月定例府議会に提案する教育基本条例案に、「愛国心」を明記することが16日分かった。「基本理念」を示した条項で、06年に成立した改正教育基本法より踏み込んだ表現になっている。同法の審議で激論になった経緯があり、論議を呼びそうだ。

 第2条で目指すべき六つの理念を明示。その一つに「我が国及び郷土の伝統と文化を深く理解し、愛国心及び郷土を愛する心にあふれるとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する人材を育てる」とした。

 府議会は維新が過半数を占めており、この条例案が提案されれば成立する可能性が高い。


美しい愛国の歴史

<特攻艇「震洋」>元隊員、手作り「零戦」で供養へ (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110813-00000026-mai-soci


毎日新聞 8月13日(土)11時37分配信

 「もう、お前たちの乗る飛行機はない」。大空にあこがれて日本海軍に入った少年飛行兵に、上官は告げた。10代の少年たちを待っていたのは、小型モーターボートに爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻艇「震洋」だった。生き残った元震洋隊員たちが、この日本軍の「人間兵器」について証言した。

 1944年10月20日、奈良県の三重海軍航空隊奈良分遣隊。予科練と呼ばれた海軍航空隊の講堂に、当時18歳の村上孝道さん(84)らが集められた。上官は呼びかけた。「特殊な兵器ができた。志願する者はないか」

 「家族を守ろう」と志願した村上さんらは、窓を目隠しされた汽車で長崎県川棚町の臨時魚雷艇訓練所へ向かった。そこで見たのは、小さな木製ボートだった。

 「何じゃこりゃ。これに乗るのではないだろう」。海軍に入って初めての愚痴だった。

 45年3月、茨城県土浦市予科練震洋隊に選ばれた当時18歳の根本栄さん(85)も、川棚町の訓練所で震洋を見た印象を「波で壊れないかと思った」と振り返る。根本さんの場合は志願ではなかった。「上官から告げられた。なぜ自分が選ばれたのか今でも分からない」という。

 村上さんは3カ月間、操縦、自爆装置の扱いなどの訓練を受けた。45年3月に赴いた中国南部の廈門(アモイ)で、8月11日に出撃命令を下された。待機の間、着用を指示されたのは飛行服だった。「飛行兵として死なせてやりたいという配慮だったのでしょう」。だが、そのまま15日を迎える。「特攻兵は全員殺される」といううわさが流れる中、日本に復員した。

 一方、根本さんは6月に本土決戦要員として静岡市清水区三保の震洋隊に配属された。25隻あるはずの震洋は4、5隻しか配備されていなかった。玉音放送を聴き「死なないで帰れる」と思った。

  ×    ×

 戦後、「生き残った負の思いがある」という村上さんは仲間の霊を慰めるため仏門に入った。住職を務める寺の本堂に、手作りの全長約3メートルの零戦が安置してある。「仲間はこれに乗りたくて予科練に入った。飛行機を置けば、みんなここに戻って来るのでは」。そんな思いで3年かけて作った。今年も「二度と戦争はしてはならない」との思いを込め、15日に零戦を供養する。

 根本さんは家業の農業を継いだ。「多くの先輩が死んだ。死んだつもりで働こう」と農民運動から政治へ。故郷の茨城県高萩市議を9期務めた。特攻の経験は「自慢話になるようで」若い市議たちには話していない。【扇沢秀明】

 ◇震洋

 旧日本海軍の水上特攻兵器。全長5.1メートルの1人乗りと6.5メートルの2人乗りがあった。自動車エンジンを積み、船首に爆薬250キロを搭載。44年に開発開始。約6200隻が建造され、フィリピン、沖縄、日本本土などに配備された。特攻や出撃基地への移動中に戦死した隊員は約2500人という。