「医療化されてしまう主体」という、問題。
SYNODOS JOURNAL : 生き延びるための「障害」――「できないこと」を許さない社会 荒井裕樹
http://synodos.livedoor.biz/archives/1902249.html
引用中段の「安易に医学用語を借用し、自分自身の言葉を駆使して「内面」の葛藤と向き合わない姿勢」への懸念には同意するが、後段のそれが「新たなチャンス」になるというキレイ事には、しょせん他人事じみた観察者のまなざししか感じ得ない。
「できないこと」が致命的なデメリットとされ、非寛容的に遇される社会では、何かが「できないこと」への理由をどこかに求めるという心理が生じたとしても、故ないことではない。他人とのコミュニケーションに関して「普通」にやりこなすことができず、ストレスを感じる人々が、それをある種の「障害」として受け入れ、自身の中で納得しようとする心理の背景には、この社会の非寛容化がどこかで関わっているのではないか。
ある種の「生きにくさ」を抱えた人が、その原因を「障害」という言葉で説明しようとすることが果していいことなのかどうか、判断するのは難しい。一方では、安易に医学用語を借用し、自分自身の言葉を駆使して「内面」の葛藤と向き合わない姿勢に抵抗感を覚える人もいるだろう。わたしたちの日常が「医療」や「医学」に浸食され、自分自身の言葉で考える習慣が失われつつあるのだとしたら、たしかにそれは懸念すべき事態だろう。
しかし他方では、苦しむ人が難解な医学用語を自分なりに噛みくだきつつ、したたかに吸収しているのだとも言えるのかもしれない。個人的には、自分にとっての「できないこと」を自覚しつつ生きることは必要だと思っている。場合によっては、「障害」という指標を借用することも、やぶさかではない。その際、「自分には何ができて、何ができないのか」「誰に、どれだけの助けを借りれば何とかなるのか」について振り返ることができるならば、「できないこと」を自覚することは、他者との関係性を紡ぎ出す新たなチャンスにさえなるのではないか。