ニセ科学批判批判批判〜「瞬間最大適応」問題〜

なんだとはなんだとはなんだ!という魔夜峰央的なノリで反応してみる。


コメントによると、といっても引用だけで意図の明示がないので何をどう読み取れというのかわからないのだが、とにかく次の文章が引用されていた。

ニセ科学批判の自己目的化がまずいのは、批判者やその同調者の「優越感情」が醜いからというより、ネットでの議論が内藤朝雄のいういじめにおける「(性・宗教・メディア・倫理 : 悲しいお知らせ。http://may13th.exblog.jp/4279438に適切な要約がある)に引きずられてしまいがちであり、ニセ科学批判もその例外ではないからだ。

http://coleopteran.seesaa.net/article/33542524.html


「優越感」よりも「いま・ここ」の論理の方が問題だと。
わかりやすいようでいて、その実何を意味しているのか分かりにくいこの「論理」であるが、参考リンクを元にその中身を解釈するに、次のようなコピーフレーズで理解することにした。


「瞬間最大適応」問題、と。


つまり、「目の前の固定的な時間、固定的な場において、異論を許さない固定的な環境を形成することによる視野や思考、共感の途絶が生まれること」に対する批判であるということだろうか。


なるほど、確かにそれが社会集団において「いじめ」などの集団形成の形でなされるのであれば、違和感も当然だろう。
しかし、ことこの問題において、「瞬間最大適応」=「目の前の固定的な時間、固定的な場において、異論を許さない固定的な環境を形成することによる視野や思考、共感の途絶が生まれること」を問題視することはあたらないのではないだろうか。


結論から言えば、端緒となった菊池氏による「ニセ科学批判」の結論が、そもそも「いま・ここ」の論理=「瞬間最大適応」を否定しているからだ。

ニセ科学」に限らず、良いのか悪いのかといった二分法的思考で、結論だけを求める風潮が、社会に蔓延しつつあるように思います。そうではなく、私たちは、『合理的な思考のプロセス』、それを大事にするべきなのです。

http://d.hatena.ne.jp/f_iryo1/20061221/shiten


また、問題となっているのが「ニセ科学批判」ではなく、「ニセ科学批判」への賛同(あるいは「批判批判」に沿う形で言えば迎合)だったとしても、やはりこの「瞬間最大適応」問題の指摘はあたらないのではないか。


問題を整理すると、
量的な問題として今のメディア環境は、ニセ科学=オカルトやオカルト的商品の情報が、まさにあふれていると言って過言ではない状況である。
それに対するアンチテーゼとして、「ニセ科学批判」が打ち出され、そしてそれに賛同の意を示す人が多く現れた。
その「賛同の意がこぞって示される状況」に対して、「ニセ科学批判批判」がなされたわけである、と。


しかし、この「ニセ科学批判批判」の抱える問題は、その「賛同」という質に注目して「心理的な状況」をフレームアップする姿勢にある。


そもそも、メディアで氾濫するオカルト情報というのは、「心理的な理由」によって流れているというよりも、「経済的な理由」つまり「商業的な理由」によって流れているのである。
つまり、それが「商品」として「売れる」からであり、「視聴率」になるからであり、「広告収入」になるからこそ、ニセ科学=オカルト情報がメディア上に存在することになるのである。
そういった状況に対して、自分がその効果も定かでない怪しげな商品にうっかり引っかかってしまうことがあるかもしれない、あるいはまた、それによって不利益を被ることがあるかもしれないとの危機感をもった人が多くいたということである。
ところが、その危機感が「商品」としてのニセ科学=オカルトに比べた時、お金にならない=売れない=視聴率にならない、という商業主義的な判断がなされ続けていたために、この発端となった『視点・論点』の放送まで、「ニセ科学批判」はメディアからほぼ排除されていたのである。
メディアが、わざわざ売り上げを減らすような情報を自ら進んで出さないのは『あるある大辞典』を引き合いに出すまでもないだろう。
メディアに限らず、企業経営において「不誠実さ」が「利益」と表裏一体となっていることは、万人が認める「裏の真実」だろう。
そういった状況があった上で、誰もがひそかに確かに疑問を抱いていたその「裏の真実」が、わずか10分の地味な枠内でとはいえ、NHKという大メディアで報道されたという「事件」が、起きたのである。
これに喝采が贈られずして何の報道であろうか。


「瞬間最大適応」的に見えたとすれば、「いま・ここ」的に見えたとすれば、それはコマーシャリズムを排した場において「初めてまっとうな批判が報道された」からであって、これはいじめ集団の形成の論理を持ち出してまで心理主義的に解釈するようなことではない。
それこそ内藤朝雄氏に失礼だろう。


この「ニセ科学批判」事件について問題を指摘しようというのであれば、「いま・ここの論理」などという心理主義的な問題をあげつらうのではなく、コマーシャリズム=商業主義の問題として指摘する方が、よほど現実的なのではないのか。


「優越感」に違和感を覚える方がまだまっとうというものだ。

「やさいをすてるなんてとんでもない!」という問題のあるある的な解決法


関西テレビのあるある枠を農水省が買い取って、その時の余った野菜のものすごい栄養効果やすばらしい病気予防効果をそれらしい実験結果と共にじゃんじゃん垂れ流して、視聴者に「自発的」な消費行動を促す。


あるある……ねーよwww

「やさいをすてるなんてとんでもない!」という問題の天の道的な解決法


おばあちゃんが言っていた……「もったいないと思うなら、自分がもう一つ余計に買えばいい、ってな」


豊作野菜の「産地廃棄」見直しへ…農水省が検討委 : 経済ニュース : 経済・マネー : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20070206it16.htm


昨年は11〜12月に好天の影響でキャベツと白菜などが豊作になった。全国で2万2000トンが廃棄され、国と生産者が折半出資した基金からの助成金は5億円にのぼる。一方、農水省が受けた電話や電子メールの苦情や意見は「130件を超える」(野菜課)という。

 計画では、今年度内に検討委員会で具体策を検討する。「廃棄せず国民に安く提供する」「動物園に寄付する」などの案が浮上しているが、価格による需給調整の枠組みが崩れる恐れがあるうえ、輸送費など一定のコストが発生するのは避けられない。農水省は財政負担を増やさない考えで、協議は難航も予想される。

「みんなと同じ」でないと「異常」であるという日本ルール

長浜2園児殺害 「送迎ルール守らぬ」 遺族、被告の身勝手さ証言
2月15日16時43分配信 産経新聞


 滋賀県長浜市で昨年2月、通園途中の幼稚園児、武友若奈ちゃんと佐野迅(じん)ちゃん=いずれも当時(5)=が刺殺された事件で、殺人罪などに問われた中国籍の鄭永善被告(35)の第3回公判が15日、大津地裁(長井秀典裁判長)であり、若奈ちゃんの母、美晴さんが「鄭被告はグループ送迎のルールを守らなかった」と証言した。

 証言によると、鄭被告は、幼稚園へのグループ送迎が始まった直後の平成17年4〜5月の間、自分の長女(6)だけを連れて戻り、ほかの園児を幼稚園に置いてくることがあった。このため、美晴さんは幼稚園を通じて再三、鄭被告に改善してもらうよう申し入れ、6月からは一時、鄭被告だけが個別で送迎するようになったという。

 美晴さんはと証言。さらに、「(若奈は)明るくて元気で、人のことを思いやる子だった。若奈を返してほしい」と声を詰まらせた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070215-00000037-san-soci


そこまでして、拒否感を表明している相手に対して、形だけの上っ面だけの一体感や仲良し感や集団行動を強制していったい何が解決するのかと。
それで得られるのは所詮、運営・管理側の合理的な手間暇の効率化であって、お金を支払う側のサービス受益を考えたものではなかろう。
それとも、「預かってやってるだけ感謝しろ」というのが、いまどきの幼稚園なのか。子供を「頭数」としてだけ見ているような感触も受ける。
それに、田舎の農家の嫁不足=無賃労働力不足を解消するためだけに、中国から「買われてきた」人に対して、昔からそこに住んでいる人間と同じ文化観や、価値観や、感受性や、精神状態を求める方がどうかしている。
そういう相手に、短期間での「改心」を強いたところで、「心からの」一体感や仲良し感や集団行動は決して得られるものではない。
その単純な事実にすら思い至らないとすれば、いったい想像力が欠けているのは加害者か遺族・関係者かどちらなのか?



「最初は普通のお母さんという印象だったが、自分勝手な人だと思うようになった」というのも典型的な心理主義的解釈。
環境的に孤立した人間が抱える精神的問題について、個人の内面だけに原因を求めるという大きな間違いを犯している。
例えば、専業主婦が抱えがちな子育て期のストレスと孤立感をすべて「個人の心の問題」=「自己責任」だというなら、今すぐ夫への愚痴をこぼす口を閉ざすべきだろう。
もし、ウチの夫は育児にも参加していると言うなら、それこそ周囲の環境によって精神的負担やストレスが軽減されていることの証ではないか。
あるいは、「そういう人間的な支えあいは家族間だけでやるべきものだ」というなら、いざ子供が被害に会うという段で突然、「地域」「地域」と叫ぶようなみっともないマネは慎むべきだろう。
「外国人妻」が一人いるような地域なら、そこにはほかにも何人かいるはずで、ならば、地域として「受け入れ」のための情報を整備しておくべきではなかったか。
それとも、外国からわざわざ嫁入りしたこと自体を「自己責任」だとして突き放すのが地域なのか。
だとすれば、「外国人妻」の受け入れに関して目を伏せてきたというその「自己責任」をこそ、地域は甘受すべきだろう。



仮に、日本人女性が言葉も満足に通じない中国の奥地に嫁入りしたらいったいどういう精神状態になるだろうか?



「最初は普通のお母さんという印象だったが、自分勝手な人だと思うようになった」という言葉が、あてはまることはないと、いったい誰が断言できるのか。



亡くなった子供たちは、「自己責任」によって殺されたのである。



これが「自己責任化」した社会の成れの果てである。