「やおい」という問題――(改)について

実はこの二作の考察は、当初、「男性マンガ家(三宅)と女性マンガ家(惣領)のセクシャリティへの規定の違いから現れる作品世界の方向性の違い」というものを明らかにすることを目的としていた。ところが、ふとしたはずみで、私はとんでもないことに気が付いてしまったのである。そう、懸命な読者諸君ならもうお分かりであろう。つまり、私が「男性」だと思い込んでいたマンガ家、三宅乱丈は、「女性」だったのである。
この事実によって私の思い描いていた仮定は、根本的な見直しを要求されることとなった。なぜなら、というのは当然、いうまでもなく、二人がともに女性作家であったからである。
そもそも私は、男女間のセクシャリティへの規定の強度違い、つまり、へテロセクシャルな恋愛主義へのベクトルの温度差を、女性作家が描くマンガの「セックスによる和解と救済」と、男性作家が描くマンガの「非性的なクイアな友愛の果ての崩壊と復讐の連鎖」という実に対照的な対比によって、読み解こうとしていた。
それが、後者が女性の手による作品となると、これはまったく別の視点が必要となってくる。
そう、女性によるファンタジーとしての男性のホモセクシャル、「やおい」の問題である。
大学でのオタクの日常を描いたマンガ、『げんしけん』に登場する腐女子キャラクター、大野さんは、「ホモが嫌いな女子なんていません!!」と断言していたが、ここに言う「ホモ」とは、男性間のホモセクシャルを指している。この一言に現れているように、この「やおい」は、非常に交錯した幻想的な嗜好の表象である。
女性が想像的に描く男性のホモセクシャルな関係・・・それが「やおい」として、すでに80年代後半から約20年近くに及ぶ歴史をもつ一つの文化表象であることを考えると、女性がマンガ作品の中で男性間の性的関係を暗示する場合には、まずこの嗜好を疑ってかかる必要に迫られる。
そもそも、この「やおい」とは二次創作、つまりパロディーにおけるマンガ文法の一つである。既存のマンガ作品、特に、少年漫画において男同士の「友情」として描かれていたものを、「深読み」によって「愛情」=性的な関係に読み替えて「描き換える」ことが「やおい」の原型である。
いろんな意味で、もはや伝説的なサッカーマンガ、『キャプテン翼』に登場した、日向くん*1と若島津くん*2が、「日向さん!」←→「若島津。」という応答を繰り返していたことがその原型となったといわれている。
その「やおい」がジャンルとして確立し、次第に、男性同士の性的な関係性を特出して描き出すことに力点をおくようになった結果、派生して生まれたのが「ボーイズラブ」と呼ばれるジャンルである。
ここに至ると、もはやキャラクターがなんであるか(パロディー性、キャラクター性)は問われずに、ただ、美形の男性キャラと男性キャラが、幻想的なホモセックスをするという行為を描くことだけに力点が置かれる。そしてもちろん、それは「愛」として描かれる。
そして、そこから、必然的にそれを追及していくと、そこには「純愛」という形のホモセックスを描かない作品も生まれてくる。(はずである。理論的には。さすがに「ボーイズラブ」には詳しくないので誰か教えてください・・・)
すると、それは一見して、パロディー元となった「友情」という形へ、ぐるりと一周して戻ったもののように見えはしないだろうか。しかし、そこに「描かれている」のは、単なる「友情」ではなく、男同士の「純愛」という性的な関係性の暗示なのである。
このような構造が、約20年の時間を経て日本のマンガ創作には一つのマンガ文法として、確立されているのである。そう、つまり、女性マンガ家が男性キャラクター同士の関係性を描いたときには、総じて「やおい」の影があると見なければならないのである。そこに描かれているのは「パロディー」としての/に起源を持つ、男性間のホモセクシャルな関係性なのである。「文法」としてのホモセクシャル描写なのである。
つまり、女性マンガ家の手による男性のキャラクター関係の描写は、マンガ家自身のセクシャリティが、作品に直接的に現れたものであるとはみなしがたいものとなる確率が非常に高いのである。
もちろん、このような「やおい」的構造を好むということに、マンガ家自身の作家性が反映されているといえる面はある。しかし、もはや一文法として確立した「やおい」がある以上、そこにナイーブに作家性=セクシャリティを見出そうとすることは、拙速の責めを免れないであろう。
以上が、このタイトルの末尾に(改)と付いている理由である。

*1:タイガーショット&ネオタイガーショット

*2:手刀ディフェンス&三角飛びディフェンス