パフォーマンスとリアル=現実/フィクションから「フィクション」へ

昨日は、さる高貴なお姉さまにわざわざチケットをお譲りいただいて、小劇場版「ハムレット」を見た。
そして、その観劇の前に抱いた感想として・・・・・・こんなことを考えたのだった。

「こういった演劇・劇団が好きな人というのは、「恋愛」ができる人なんだろうな。」*1

フィクショナルなパフォーマンス(身体的創作)、フィクションとしてのパフォーマンスにリアリティを感じることができるという意味で。

マンガ・アニメ好き*2の場合は、フィクションはあくまで「フィクション」と捉え、リアル=現実とそれとを頑として区別している。そして、その姿勢はそれ――「フィクション」が、パフォーマンス――身体的なものとなった時であっても変わらない。
よく言われる「空想と現実を混同して反社会的な行動を起こしがちだ」というような意見とは、「オタク」という蔑称を筆頭にした、「普通の人々」からの「普通ではないもの」に対する、悪意に満ちた偏見の表明に過ぎない。*3


だが、そこには現代社会における問題が、
生きる人々がリアル=現実を感じる位相、レベルの問題がそこには横たわっている。


そう、問題は、人々が感じる「現実」がどこにあるかということだ。
では、オタク的人間にとっての「「フィクション」ではない現実とはいったいどこにあるのか」という問題である。
創作・作為のすべてを「フィクション」であると感じるのであれば、それに対応する彼らの、われわれの「現実」とは、いったいどこにあるのか。

60年代をピークに演劇が社会という舞台から後退し*4、高度成長期・バブル経済をバネにいまや一気に社会の表舞台へと躍り出たオタク的文化現象。


その戦後の現代史は、言い換えれば身体が図像・映像に取って代わられたプロセスだといってもいい。


演劇・演劇人を以って身体につなぎとめられていたフィクションは、マンガ・アニメという図像によって人々の身体から解き放たれ、いや、剥ぎ取られ、それ自体何か一個の存在であるかごときに機能し始めた。

そう、フィクションとはまさに「フィクション」のこととなり、現実とは別の位相=レベルに属するものとして、パフォーマンスする身体をも含めて、リアル=現実ではない何かへと移行したのだ

フィクションとリアル=現実とをつなぎとめていた身体=パフォーマンスをも、身体を伴った活動そのものをもが、「フィクション」に回収されてしまったことによって、
もはや、現代は現実から身体が取り除かれた時代となっているのである。
そして、生きている、かろうじて生きている現実とは、まさに四肢で触れる範囲内へと縮小、縮小しているのである。

「現代の男性にはコミュニケーション能力が不足している」?「現代の若者にはコミュニケーション能力が不足している」?
ある日突然、男性から、若者から、それが失われたのでは、ない。

身体は、着実に確実に失われ続けていた。失われ続けてきたのである
「フィクション」の台頭によって。
現実は、着実に確実に縮小し続けていた。縮小し続けてきたのである。
身体が「フィクション」に取り込まれることによって。



だから、引きこもるのである。だから、NEETなのである。
自分に残された最後の現実を、虚無に飲まれた世界の中で最後に残った場所で、生きる。


それが、「現代の社会問題としての若者の現象」なのである。

*1:ああ非モテですよ喪男ですよヽ(`Д´)ノウワァァァン

*2:いわゆる、オタク

*3:もちろん、ままに起こる事件ではあり・・・そして、「合宿スレ」などをみるに小規模なものは絶えず散発的に起こっているらしいのだが。

*4:唐十郎蜷川幸雄などの小劇場運動(聞きかじっただけの知識ですけどー)