それがアカデミズムではないのか?

プロのジャーナリズムとは何かについて考える・最終回
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要は、頭のいい人、面白いことの言える人、1つのことに粘着して徹底的に調べられる人に、みんなが自然に(無意識に)お金を渡す仕組みがあればいいと思うのですよ。で、その中の何人かは専従ジャーナリストになって、調査報道に精を出すと。で、読者やブロガーの中から、「俺さあ、1年だけこのネタ徹底的に調べてみたいんだけど、カネくれない?」みたいなこと言う奴が出てきたら、それも1年間だけの契約で専従ジャーナリストにするとか。

社会と大学(アカデミズム)との通気性が極端に失われた結果、勇ましい「文学部廃止論」なんてのが出て来、そしてその「文学部的なるもの」に支えられていた、既存ジャーナリズムもまた批判にさらされて、「新しいメディアはよいメディア」といわんばかりのネットジャーナリズム=ブログジャーナリズム待望論なんかにもつながっている。
しかし、どうあろうと、いかに既存ジャーナリズムを上回る「専門性が特化した人物」が偏在していようと、それをコンダクト(編集・収集)する人物なりシステムなりが無ければ、それがまた「知」としての普遍的位置づけを得られないのもまた事実だ。
確かに、既存のシステムの内部において希望を失わず改革にいそしむことの、構造的困難さはいかんともしがたいものがあるが(人は老いれば老いるほど腐りがちだ)、アンパンマンのように、そう簡単に「新しい顔」ができるわけでもない。*1
そこでこそ、批判にさられている木村剛氏の他人のふんどしを借りたようなブログ運営方針にも、一定の根拠はあるわけだが、惜しむらくはそれだとどうしても、木村剛というカリスマにおいしいところをすべて持っていかれることをヨシとする、いや喜んで自らの身を差し出すような献身的姿勢を持った人間でないと、残らない・集まらないということだ。たとえ、どんなに「踏み台」であることをアピールしても。*2
だとすると、そのような一個に人間にどうしても付きまとう「ある種の胡散臭さ」を排除するために、そして、「新しいメディア」としてのブログに感じられる「期待感」が失われないうちに、何らかの「コンダクター的システム」が必要になってくるのだが、こういう話は散々、北田暁大氏がいっていることだと思う→北田氏のブログ(停止中っぽいけど)。


私信的なものからの援用で気が引けるのだが、某新聞記者の(F)氏曰く、「社説なんてのは、その新聞の一番とんでもないところが出るものだ」という。
その会社の重鎮(=老人)が合議制でもって仕上げるのだから、それはもうトンデモの結晶になるのも当然だ。
とはいえ、いくら、それがもはや「マスゴミ」でしかない、といったところで、ネットが・ブログが、それに取って代われているわけではない。
であれば、大学進学率が80%近くなり、2007年には人口比で全入時代にならんとするこの時代になって、所詮新聞もまた、「記者センセイ」がお書きになったものなどではなく、「自分と同じ程度の人間がたまたま書いたもの」だというような認識でもって、「新聞」を取り巻く空気を換えていく所から、はじめるしかないのではないだろうか。
例を挙げるならば、
かつての朝日新聞のキャンペーン「新聞を疑え!」は、2ちゃんねるによって、ネットというツールによって、達成された部分が少なくとも、あるのである。

それをさておいた上で、そういうものであるという認識を踏まえたうえで、新聞を読み、意見を返し、していくようなことをしていけば・・・との希望的観測を抱くが、
それにしても重要な鍵となるのが、システムとしての大学の存在、機能の問題である。

頭のいい人、面白いことの言える人、1つのことに粘着して徹底的に調べられる人に、みんなが自然に(無意識に)お金を渡す仕組み

この一端が大学=アカデミズムであったはずのものが、今やそれが忘れられ、単なる、大いなる「無駄」としてしか、まなざされていない。
「大学などはすべて職業訓練所にしてしまえばいいのだ」といいたげな、奥田経団連会長様を筆頭とする財界の考えは、はっきり言って10年先、いや5年先をも見通せていない愚弄な意見だ。
所詮、目先の利益確保しか目に映らないという点が、市場主義・企業主義の弊害であり、それが恐ろしく色濃く出ているのが今の日本の現状だといえるだろう。
そしてそれに少しでも異を唱えれば、「所詮、貴様は学生だ」というお決まりの侮蔑の文句が投げつけられるしかけとなっている。
この遠因をさかのぼれば、やはり60年代の「社会運動」の大いなる挫折、そしてその後の「経済万能」が称えられた70年代、80年代ということになろう。

この国で存在を許されるのは、「理想」や「希望」ではなく、「利益」や「目標」でしかなくなったのだ。

いうなれば「安保」がすべてを破壊したのだといってもいい。*3

そして、そこでこそ先の「新しいメディア」への困難の原因が見えてくる。
<「マスゴミ」という蔑称とそれに対する「ブログ」への期待感>という構図に含まれる、社会改革運動的な志向があるにもかかわらず、それへの希望を感じさせるブログの輝きがあるにもかかわらず、それが一向に成しえないのは、それが「経済に首根っこを抑えられているから」である。
なんとなれば、先の木村剛氏は日本振興銀行関係そのものとも言われ切込隊長BLOG(ブログ)〜俺様キングダム(特に最近の、木村剛氏関連のエントリを要参照)、その点で、彼はこの国での理想・希望を押しつぶすシステムの一端、象徴なのである。
その彼が、私財を投じて非採算的に他人のブログをコンダクトしているならともかくも、おそらくはそうではなく、個人的な利益追求もかねてのブログコンダクトだというのならば、それは結局、本質的に、旧来の70年代80年代式の経済万能システムを暗に引きずった、「マスゴミ」となんら変わりないものでしかないのだ。
オプティミズム(楽観主義)も結構だが、それが自己韜晦に基づいているとなれば、なにおかいわんやである。


だからといって、ペシミズム(悲観主義)に陥ってしまって、それでいい訳はない。
そう、希望のメディアとしてのブログをコンダクトするシステムを、経済収益で考えることが困難なら、それを企業体として構築することが困難なら、経済が首を絞めるというなら、その経済の手のとどかないところへいけばいいのである。
利益の追求を考えなければいいのである。
発想の転換である。理想への転換である。そして、その理想的な空間は、すでにしてこの社会に存在しているのだ。
われわれの目の前に!

ここで一つ提案するのが、大学という既存システムの有効利用である。アカデミズムという今や蔑視される旧型システムの再生利用といってもいい。

そう、「所詮、学生(アカデミズム)だ」と蔑まれるのであれば、それを逆手にとって、「確かに、学生(アカデミズム)です」と、開き直った境地に立ってしまえばよいのだ。

「無い・無い・足りない」と叫ぶなら、叫ぶ暇があるのなら、北田氏よ、北田暁大氏よ、あなたが「それ」をすればよいのである。
あなたが東京大学という「経済の抑圧」から隔離された、そして既存に構築されたシステムの中において、社会的に影響力をもたさんがための「ブログコンダクトプロジェクト」を発動すればよいのである。

そして何もそれは東大だけに限らせることは無い。
大学はそれこそ日本全国にある。
学生は日本全国にいる。
元学生なら世界中にでもいる。
各大学が、各個に、プロジェクトとしてブログをコンダクトする。そして、各大学がまた相互にリンクを張ってもいいし、各大学にはあまたの学生・元学生という広大なネットワークがある。
それでこそ、利益や目標に縛られず、そして特定の個人への不信感を和らげ、文学部的アカデミズムの失地回復にもなり、また既存のシステムの有効活用にもなり、日本という国全体、あるいは世界的なレベルでのネットワークの「再発見」ともなり、そして、「新たなメディア」としての理想・希望を素直に感じさせる、そんな姿が、そんな社会が浮かび上がってくるのではないだろうか。

*1:ジャムおじさんは、やっぱりすごいということです。

*2:ガイア大尉は偉かったということです。

*3:いうなれば、ですからね、いうなれば。