「恋愛主義」への違和感

さて、ここまで、オタクとコミュニケーションについて考えてきたのだが、
ふと考えると、「普通に恋愛している人間」は、恋愛しない/できない人間に対して侮蔑を以ってコンタクト=コミュニケーションを断絶し、恋愛しない/できない人間は、「恋愛する人間」に対して皮肉を以ってコンタクト=コミュニケーションを断絶している、ということになろうか。


確かに、「モテ至上主義」は、幻想かもしれない。しかし、「恋愛主義」は幻想ではなく確かに実在する。

例1:男A「彼女なんていないっすよ」→男B「普通いるやろ!!」
例2:女「これだけ女の子が多い大学の中で、彼女ができなかったら異常ですよね!!」

これは、私個人が確かに耳にした、非オタクである「普通の人々」の発言である。そして、これらはかなりの強調を伴った発言であった。
この強調と阻害はなんなのだろうか。

それは、「恋愛主義」=強制的異性愛システムによる恐怖支配の存在を示しているものなのかもしれない。
だが「普通の人々」であれば、それはこの例のように「排除の為の正当な根拠」として、「悪」を切り裂く剣として振りかざされる。
しかし、先天的にコミュニケーションから阻害されたままオタクとなったもの、オタク的な心性を身につけざるを得なかったものはいうと、同じものが、病理としての「モテ主義」を生むこととなってしまう。


確かに、「モテ」文脈で恋愛をとらえている限り、「モテ」なる現象はそうそう起こり得ない。
少なくとも、「もてない」=好意を持たれることが極端に少ない、という自覚へ歩み寄ることが、まずもって必要になのだろうか。それは、ある種の開き直りから発した、自己発信=コミュニケーションの一端なのかもしれない。


とはいえ、オタクが「モテ」志向を脱し、正しい「恋愛」へといたることによって見事に「改心」することが、さも「美しく語られる」ことに対しても、強い違和感を感じる。*1
それが、つまり「非恋愛=もてない」状態への限りない侮蔑の表明と、まさに表裏をなすものだからだ。
それが、固定化した「オタク志向=コミュニケーション不全」図式を描こうとするものであるからだ。
コミュニケーションの問題を、すべてオタクであることにのみ背負わせて、断罪し、贖罪させ、思想的教化をすることが、娯楽として行われている、いいように弄ばれている、そう感じるからだ。






さて、長いのでもうこの辺で。*2

*1:参照→http://ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/hondat/saru/nikki033.htmの12月20日後半

*2:とまあ、こういう風に物事をとりあえずひっくり返して、韜晦してみせることなんて、オルタナティブポストモダニストにかかれば、お手の物ですよ、と。