「先天的要素によるコミュニケーションからの阻害」仮説からみえる「希望格差社会」
テーマは異なるが、「なぜ、今の子供が努力を必要としない「最初から最強」型の主人公に共感を覚えるのか」という疑問を目にしたとき、ふと、関連しているのでは?と感じたことを記しておく。
個人的に気持ち悪くてしょうがないのが、主として小中学生がハマっている「努力を要しない天才たちが主人公の物語」だ。「テニスの王子様」しかり「機動戦士ガンダムSEED」しかり。どうにもああいった傲慢・横柄な主人公へのシンパシーを、どのように受取手が感じているのかが、オイラには非常に分かり難い。
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20041222
そして、それはこうつながる。
最近の読者はその努力という過程自体をすっ飛ばしている。
主人公の努力する姿に対して抱いていたはずのシンパシーが、今の小中学生の読者には通じない。(中略)ここまで傷つきやすくて若いときの自分の無能力と向き合えないとすると辛いだろう。
(同上)
つまり、天才への共感とは、「努力の過程における挫折への恐れ」によるものだという話になっている。
しかし、それを先の私の「先天的要素によるコミュニケーションからの阻害」仮説と重ね合わせれば、
「努力そのものの存在が不確かになっている」ことを、子供たち自身が感覚的に理解してしまっている、ということになるのではないだろうか。
さらに、
90年代の半ば以降からだろうか……奇妙なことにそれはバブル崩壊と時間的に近接しているのかも知れない
(同上)
このような指摘から、
例えば、「天才型のライバル」とは高度成長期の日本にとっての「先進諸国たる欧米」(その先進性は日本からすれば天与のものとしか見えまい)であり、努力して勝利する主人公とは、経済成長期の日本のセルフイメージである、とはいえまいか。(中略)ちなみにこれを敷衍すると、天才の主人公が勝つ話ってのは、先進国たる日本が既得権益をどこまでも保持する話ってなるわけです。
http://d.hatena.ne.jp/imaki/20041223
確かに、これは個人的な印象論的な「社会反映論」的な思考かもしれない。
が、人間が社会的動物であるというところからすれば、いかなる活動においても、もちろん創作活動においても、社会状況から何らかの形で影響を受けていると考えることは妥当な話だ。
ただし、私に言わせれば、この「天才」の流行とは、「努力への信仰」いや、「努力への期待感」「努力への可能性」が日本から根こそぎ失われている状況を示しているものだ。
今や社会にあるのは「先天的に決定された未来像」であり、それは、端的に言えば、親の社会的地位、所得、あるいは文化・教育に対する志向に左右される未来像である。
希望に関する社会環境の4類型
つまり、「天才」流行の土壌とは、NEET・ひきこもりがこうまで増加したのと同じ、
「希望格差社会」にあるのだといえるのではないだろうか。
上は主にloveless zeroさん経由
ほか、ARTIFACT@ハテナ系さん経由