「伝統」化されるオタク概念の危険性〜「現代の隠者としてのオタク」観に対する異議申し立て〜

「萌え・燃え」は、はたして「「わび・さび」と同じ」なのだろうか。
そんなことを、あの荒俣先生が言い出しているらしい。(荒俣先生←荒俣宏氏のこと)
以前にも、同じようなことを岡田斗司夫がいっており、ついでに今思い出したが、確かベネチアビエンナーレでの「OTAKU」展示の解説にも、「萌え」と「わび・さび」が並列されていたような気がする。

はたしてそうなのだろうか。
いや、そもそも、なぜそんなことを言わなければならないのか。
そして、何よりもうさんくさいのは、
「隠者」だとか「周辺的存在」を持ち出して、「日本の源流」だとか「伝統」だとかいう、考え方そのものだ。
その思考の怪しさ、「周辺的なものこそが中心である」とする、その転倒具合。
それは上滑りをする、上滑りをせざるを得なくなる皮相なナショナリズムへの端緒であるように見えてならない。




もともと少数の特殊な志向を持つ層による小規模な独自のムーブメントが、次第に大衆化し拡大し、ついにはメディアをも席巻する全国規模での一大センセーションを巻き起こすものとなった、「オタク」。
その様は、確かに、もともと小規模な集団による独自の改革運動であったそれが、次第に大衆化し拡大し、ついにはメディアを席巻するまでの全国規模での一大ムーブメントとなり「歴史」の一部となった、「鎌倉新仏教」の姿と重ならなくもない。
ある意味で、現代は中世鎌倉時代の遁世僧ブーム、浄土念仏ブームと同じ様相を呈しているのかもしれない。
猫も杓子も山も川も草も木も「南無南無」いうのと、オタも非オタも「萌え萌え」いうのと比べれば、なるほど似ていなくもない。


しかし、だとすれば、いずれ近いうちに強烈な冷や水が浴びせられる運命である。
そして、それはおそらくその運動の内部から起こるものだ。


私が挙げる声もまたそのうちの一つなのかもしれない。


だが、やはり言っておかなければならない。
安易にそれを褒め称える言説が、トートロジー的なナショナリズムでしかなかったことを垣間見た者としては。


何がもっとも危険なのか。
それは、現象をそれそのものとして捉えようとするのではなく、
「過去の美しい伝統」に見立てて、それに依拠することで、その価値を証明しようとするその姿勢が、既に危険なのである。


確かに「歩み寄り」の手段として、大衆ウケもよく、そして広くその価値が「認められている」ものになぞらえることは、一見、有効に見えるかもしれない。
しかしそれは、すぐさまそれ自体が目的化しはじめ、ついには現象そのものではなく、それへの形容だけが語られるようになるのである。
つまり、「萌えは、わび・さびに通じる」→→→「わび・さびは日本の伝統である」→→→「日本の伝統は素晴らしい」→→→「日本は素晴らしい」→→→「日本が素晴らしいのはその伝統による」→→→「日本の伝統は素晴らしい」・・・・・・といったように。


そしてさらに問題なのは、そうして中心化された周辺的事象は、――周辺的事象がいくら伝統化されて語られることにより、中心化されたとしても、
一度、その「語り」の文脈を外れてしまえば、あっという間に誰も見向きもしない過去の遺物となるのである。


「萌え・燃え」という言葉は、たかだかここ数年で浮かび上がった言葉に過ぎない。その概念をのみ、さもオタクの核であるかのように扱い、もてはやすことは、いつか、この「萌えムーブメント」が終息したあと、オタクそのものをオタク自身が過去へと葬り去ることになってしまう。


たとえその時、オタクが生き延びていても、である。


そんなことはありえない?
当事者がそこにいるなら、それが「過去化」するなど杞憂に過ぎない?


とんでもない誤解だ。
そして、われわれ日本人はその実例を知っている。
今やほとんど教科書でしかその存在を知られず、ほかのメディアに取り上げられることもほとんどなく、にもかかわらず、歴史的存在として確かに存在している、ある集団をわれわれは知っている。*1
それが、


――――――――――――――――時宗である。


そう、「踊り念仏」で「有名」なあの一遍上人が開いた(とされる)時宗だ。
その時宗が今も存在していることを、一体どのくらいの人が知っているのだろうか。知っていたとしてどの程度の人が関心を持つだろうか。


そして、
いざ関心を持とうとしたときに手にできる書籍には、一体何が書かれているのだろうか。
時宗が素晴らしいのは日本的だからだ。日本的なものが素晴らしいのだ。」
まさにそんなことが、延々と繰り返されているのである。
そこにあるのは、一遍の姿でもなく、思想でもなく、まして踊念仏という現象でもない。
伝統であることが、「日本的なるもの」という得体の知れないものだけが、美しく語られているだけなのだ。


「伝統」で物事を語ってはならない。
「伝統」で現象を語ってはならない。
それは、
ウロボロスのように、表層的な自家撞着を繰り返す、トートロジーとしてのナショナリズムにしかならないのだ。





このトピックのきっかけとなった記事。
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20041226
ここからすぐに、なるほど「わび・さび」だ「粋」だという「連想」*2が始まっている。

着々と進行する「オタク」の歴史化〜「萌え文化」?〜
http://blog.drecom.jp/excite/archive/1337

*1:試しに、ネットで検索してみればいい。そこには公式サイトすらないのだ。

*2:あーしょーもねー