ジキルニュースとハイドブログ

久しぶりにたまたま見たNEWS23で、なにやら興味深い特集が組まれていた。
テーマは、〜ブログはジャーナリズムを殺すのか?〜といったところである。
まず、その特集について説明すると、
ネタは、アメリCBSアンカーマン*1ダン・ラザー氏の引退を引き起こしたブログ騒動と、それをきっかけとして起こった、「ジャーナリズムとは何か」という根源的な問いかけが軸である。そこに、現在のアメリカジャーナリズムの政府寄りの報道姿勢がはたしてジャーナリズムに値するのかという疑問、そして、「取材源の秘匿」という原則にまつわる問題の大きく三点である。
NEWS23では、一貫してブログをジャーナリズム=報道とは認めておらず、ブログとはジャーナリズムと敵対する無責任でいい加減で有害な「問題」である、とする姿勢が読み取れた。そして、「ジャーナリズムとは何か」という問題は、「われわれジャーナリストが真剣に考えていかなければならない問題である」というまとめであった。


さて、その内容から受けた印象であるが、
この特集の編集構成は、まさに「印象操作」ということばが頭をよぎるようなものに見え、そしてそれは、今のジャーナリズムの報道スタイルが既に、「時代をつかめていない」ということを示しているように感じた。
端的に問題を指摘すれば、2ちゃんねる的な作法に対して、実に脇の甘いものとなっているといわざるを得ない、ということである。

  • ここでいう「2ちゃんねる的な作法」とは、「敵」となる左翼リベラル言説をカリカチュア化し、その単純化された側面のみを全体として取り上げ、冷笑することによって対象を矮小化するといったものである。それは、たとえ汲み取られるべき視点があったとしても、まったく無視されてしまうという結果につながる。


たとえば、「アメリカのブログ」の意見の典型として取り上げられた意見が、「CBSはリベラルに偏っている」といったような右翼的な意見であった点は、ブログのすべてが右翼的であるかのような印象を与える。
また、「アメリカのブログ」を運営する典型例としてあげられた人物は、その構成上、まさにヒール(悪役)として配置されていた。
だが、その彼が「ゲイの人々への風俗情報斡旋業*2という「いかがわしい仕事」を本業としていた」などという情報を、その「いかがわしいサイト画面の映像付きで流すことが、はたして、「ジャーナリズムとは何か」という問題を考える上で触れるべき必要な要素であったのだろうか。大いに疑問が残る。
むしろ、そのようなブログにまつわる「いかがわしさ」という一面を取り上げることで、視聴者に対して、NEWS23を含む既存のジャーナリズムの「聖性」や「清廉潔白さ」を、裏返しに印象付けようとしたのだという理解の方が近いのではないか、と思わざるを得ない。
視覚的な面についても言っておこう。
各章のタイトルは、ネット上の掲示板やブログの文章をイメージした意味不明の文字列をベースにして、そこから一文字ずつ拾い上げることによって、章タイトルを浮かび上がらせるというスタイルになっていた。
これなどは、視聴者の無意識へのサブリミナル的な印象操作であるといえなくもない。
まず、ベースとなる文字列が掲示板やブログを思わせる画面に「まったく無意味に配列されている」という点が、「ネット上の意見など無責任な個人が意味のない感情と偏見を垂れ流しているに過ぎない」というメタメッセージを送り出すものとなっている。
さらに、そこから「(製作者の)編集を経て、意味のある文字列が浮かび上がる」という構造は、インターネットに対する既存ジャーナリズムの優越を誇っているともいえる。


先に言った「時代をつかめていない」ということのポイントはというと、
もはや現在においては、ジャーナリズムの恩恵にあずかる視聴者が、ジャーナリズムの言うことをありがたく押し黙って聞き入るという従順な姿勢を持つものではないということ、端的に言えば、既に視聴者はジャーナリズムの規律下にはない、ということである。
そして、視聴者=読者はジャーナリズムを聖なる存在、権威ある存在として仰ぎ見るのではなく、むしろ同等なものであるとみなし、そのようなジャーナリズムに対して同等に意見したいという欲求を抱えているということである。


それ対するジャーナリズムの姿勢が最も端的に現れているのが、各新聞社のホームページである。そこにはインターネット上でもっともメジャーなツールである、コメントや掲示板といった要素が一切ない。(もちろん、従来からの投書の電子版という形でのメール窓口は開かれているのだが。)


さて、この特集の核であったジャーナリズム=報道の定義とは、どのようなものだとされたのか。
アメリカの元ジャーナリストへのインタビューの中で出た、「真のジャーナリズムの行う調査報道には責任が付随し、好きなことを言っているだけのブログとは「格」が違う」という意見が、この特集の、つまりはNEWS23の結論というところであろう。
そして、アメリカにおけるブログをきっかけとしたジャーナリズムの定義の問題は、日本においても同様であり、われわれ日本のジャーナリストも「ジャーナリズムとは何か」という問題を考えていかなければならない、というのが、筑紫哲也の締めであった。


が、
さて、その結論において、まさに意図的に、編集上の問題として、構成上の問題として看過されていたのが、日本におけるブログの状況、ひいては2ちゃんねる的な「反応」*3に対する、日本のジャーナリズムの、NEWS23の姿勢のあり方であった。
アメリカ・ジャーナリズムを揺るがしたブログ」というテーマを掲げ、まとめとして「ジャーナリズムの再定義」という問題の存在を提示しながらも、あくまで、ブログ=インターネットというものが「アメリカにおける特殊な事情」であるかのように、まるでジャーナリズムの定義を揺るがせしたインターネットという存在が日本には存在していないかのように、締めくくられていた。


そんなことはありえない!


日本のインターネット上でも既に長らく、そのジャーナリズムの問題が提起され続けている。
アメリカのTVニュースが「インサイドブログ」というコーナーを作ってインターネット上の言論を定点観測をするまでになっているという事までを報道しておきながら、そうまで言及したにもかかわらず、日本の状況については一切触れない。
ブログを軸としたジャーナリズムの再定義というテーマを掲げておきながら、にもかかわらず、日本の状況については一切触れない。
この既存のジャーナリズムによるジャーナリズム観とブログ的、インターネット的なジャーナリズム観とのすれ違いとは、いったいどこに原因があるのか。


おそらく、そのひとつの原因は、現在のジャーナリズムにおいて、多くの視聴者が「見ているもの」は何か、「読み取っているもの」は何か、を既存のジャーナリズムがどのようにとらえているのかという点にある。
結局のところ、視聴者の多くがジャーナリズムに接したときに「見ている」もの、「読み取っている」ものは、「純然たる調査報道」なのではなく、「責任ある取材」なのでもなく、それらの情報を「分析」し、マスたる視聴者にわかりやすい状態に「編集」し、「構成」したという部分、「ものの見方」や「意見」や「評論」であるとかいった部分、そしてまた「煽情的な娯楽」であるとかいった部分である。
NEWS23をはじめ、既存のジャーナリズムは、自ら「責任」と「質」を自認する「調査報道」や「取材」こそが、視聴者をひきつけている核であると考えているのであろう。


「責任ある調査報道こそがジャーナリズムである」。確かに、それはひとつの真理である。
だが、それがメディアに流されるときには、否応なしに編集、構成といった作為が介入する。


視聴者が既存のジャーナリズムを信頼していないとすれば、その編集や構成といった作為にこその不信の種があるのである。
何も「責任ある調査報道」に対して無駄を唱えたり、必要ないと捨て去ろうとしたりしているわけではないはずである。
NEWS23の取材者は「ホリエモン*4の「ジャーナリズムを殺す」というセリフをさもおどろおどろしく取り上げ、それに賛同する人々がいることに危機感を抱いていたようだが*5、その堀江氏の発言は、かの氏の性格的な要因、はたまたメディア戦略に長けたブレーンがいないという要因による単なる説明不足、言葉足らずであるのではないのか。
繰り返していうが、堀江氏が「殺したい」と言ったのは、人々がそれに近いことを望んでいるのは、ジャーナリズムの錦の御旗として掲げられる「責任ある調査報道」という部分ではなく、メディアとして行われる「編集や構成にまつわる不公正感や不公平感」という部分なのである。


さもイカガワシイ香具師のように紹介されていたアメリカのブログジャーナリストであるが、彼がブログ界で信頼を得、一定の影響力を持ちえたのは、まがりなりにも、ホワイトハウスに足を運び報道官に直接質問をするという、「調査報道のいろは」を踏んでいたからではないのか。(その背景に「共和党政府の何かしらの陰謀めいた仕掛け」があったとすれば、そこでこそ「責任のある調査報道」が役目を果たすことになるのではないのか。)
何も、インターネット上にいる人々は、たとえ低きに流されやすいにしても、皆が皆、無責任な放言に安易に耳を貸すような「従順な」人々ばかりではない。
むしろ、インターネットでは、既存のテレビや雑誌メディアに対して以上に、「ひねくれ者」であることが、批判的見地を持つことが要求される。
それは、2ちゃんねるのような「便所の落書き*6であっても、その原則として、折に触れて「ソース*7は?」という形で注意喚起と事実確認がなされることからも明らかである。*8


結局のところ、ひとついえるのは、この国の「課題共有能力」の低さだ。
先のNHKの「日本のこれから」にしてもそうであるし、このNEWS23の特集にしてもそうである。
「ジャーナリズムとは何か」という問いを発し、その再定義を投げかける素振りを見せておきながら、ブログという絶好の視聴者との鍵をテーマとして取り上げておきながら、それがアメリカにしかないものであるかのごとく扱い、最後には「われわれジャーナリストの問題」として落としてしまう。
この「課題共有」に対するセンスの無さこそが、日本のジャーナリズムの最も大きな問題なのだ。


責任あるニュースメディアは、ジキル博士のように真剣に悩み、真摯に問題に取り組み、自問自答し、奮闘しているが、対して、無責任なブログは、ハイド氏のごとく感情に任せて攻撃的書き込みや、暴力的な発言に明け暮れている。


「ジャーナリズムとはわれわれ優れた一部の者の特権であり、われわれジャーナリズムはそれを守る。それに仇なす者は悪である。」
さもそう言いたげなジェスチャーは、つまるところ、われわれ視聴者を馬鹿にしていると同時に、自ら問題を矮小化してしまっているとしか言いようが無い。

*1:=ニュースキャスター

*2:正確ではないが、ナレーションと映された画面からこう判断した

*3:2ちゃんねる的な「意見」というものは存在せず、そこにあるのは「反応」にすぎないものであろう、という意味である。

*4:こうした「キャラクター化」した言説が、そもそもネットに端を発するものであり、こうした言葉を使うことが、事物の「単純化」という大いなる罠に陥るきっかけとなることに気づいていないのだろうか?こうしたところもまた、脇の甘さを露呈しているといわざるを得ない。

*5:この危機感の表明すらも、既存のジャーナリズムの既得権益の保守を意図するものと見えなくもないのだ。

*6:BY筑紫哲也

*7:情報源

*8:もっとも、先の「イラク人質自己責任論」においては、ほとんどがデマやネタや妄想という低きに流れていたのだが。