私にとっての「オウム」とはどこにあるのか

地下鉄サリン事件から10年となった今年、
『私にとってオウムとは何だったのか』という本が出版された。3分の2が早川紀代秀氏の独白、残りが宗教学者川村邦光氏の分析という構成の本である。



私にとってオウムとは何だったのか
早川 紀代秀 川村 邦光
ポプラ社
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おすすめ度の平均: 4.0
3 オウムは決して他人事ではない
5 この人しか語り得ない大量殺戮による救済計画の論理
4 意外な一面が…
3 配慮と暴露のバランス



読まずに語るというこの文章が悪い例であることはいうまでもない。しかし、それを承知の上で、あえてここからは、その本をきっかけとして、少しばかり思うところを書いてみたい。


「何だったのか?」とのタイトルどおり、そこでは、もちろん現在の社会への警句としての意義もあろうが、「オウム」という過去に存在した教団の内部からの見た「事件」を語り、分析するものとなっている。
だが、はたしてこの期に及んで過去からの「評価」をすることに、どれほどの力があるのかという疑問を、どうしても、持ってしまう。
被害者以外の世間のほとんどが、世界史上まれに見るニュース=最高のエンターテイメントとして消費し、それが現在の「テロの時代」に先駆けた事件だという点のみ気に留め、それを生んだ「環境」を省みることなく、「異常者の集団」という「効率的」な理解を主とするただ今の状況。
もはや、「異常者」と切り捨てられた「オウム」の内側を開いて見せたところで、いかほどの人がそれに目を向けるだろうか。そしてまた、「かような人」だけが目を向けることになるのではないだろうか。
もちろんそれは、日本が「オウムという問題」に対して、まだスタート地点にも立っていない、ということなのかもしれない。
だが、今よほど切実に必要なのは、内側からの「評価」ではなく、外部からの、社会からの、世間からの「再評価」の方ではないのか。
それは、どこか教条的な「オウムは世の中の縮図だ」という単純なコメントともまた違う。
「世間こそがオウムである」というのではなく、「世間の中にあるオウム的なセンス」「世間の中にあるオウム的な心理」の存在に光を当てること。そして、それが少しも解消されていないこと。いやむしろ、「オウム」によって宗教というツールへの回路が絶たれたことによって、10年にわたって蓄積され続けてきたということ。それを起点としてこそ、今「オウム」を語る、ということに意味が生まれるのではないのだろうか。
「学校殺死」も「ひきこもり」も「NEET」も、世が世なら「オウム」に転がり込んでいたのではないのか?
その事実の、その現象の、その「存在」がこそ、語られる意味があり、そして、それでこそ「かような人」ではない、自称「普通の人々」が、その関心のいくばくかを割いていくことになるのではないのだろうか。


「オウムなき社会」で「終わりなき日常」は終わりを迎え、「限りある日常」が白い恐怖となり、灰色の幸福となり、社会を覆っているように見える。
宮台氏本人がいうように、「終わりなき日常」は五年ともたずに終息した。だが、「オウムなき社会」とは、裏を返せば、「オウム」という存在が目視でそれと認識できないまでに肥大化した社会、「オウム的な社会」というべきものなのではないのだろうか。
世の中に「オウム」があふれすぎているがために、それがかえって見えなくなっているだけなのではないのか。
そして、旧「オウム」=アーレフの存在が、社会にとってのスケープゴートとなってしまっているのではないのか。「オウム」はそこにいる、われわれと何の関係があろうか、といったように。


とはいえ、現アーレフが、自らが「オウム」であったことの意味を真摯に十分に受け止め、それを反問し続けているとは、到底思えない。*1
だが、はたしてその「宗教教団の語りの能力」の低さは、「オウム」=アーレフだけのものなのだろうか?
この日本にある宗教教団の中で、いったい誰が自らの存在意義を世間一般にまっとうに語れているのだろうか?


日本の宗教教団の、特に仏教教団の、社会問題としての宗教を語った声を、馬鹿の一つ覚えのように念仏のアリガタサを繰り返す以上の意味のある社会的言説を、私は聞いた覚えがない。
「子供が幼稚園で念仏を唱えさせられている」風景を見るだけで安心するような愚老僧が、ほとんどだ。
そんな中で、もし、私が得度をした原因をひとつ挙げるとするならば、それは宗祖の教義の中に「信仰」を強いる面がなかったからである。*2今の世の中で、いったい誰が、どこの誰が、どういう育ち方をすれば、愚老僧好みの妙好人じみた馬鹿になるのだろうか?「信じる」などということがあるだろうか。




幸か不幸か、私は「宗教について考える」経験を得た。
だが、はたしてそれが幸なのか不幸なのか、私は本当にわからない。
そうした「宗教について考える」経験を得たからこそ、今こうしていられるのかもしれない。そしてもし、その経験がなければ、私が「オウム」になっていたとしてもおかしくはない気もする。
だが、宗教について、「オウム」について考えることが、はたして「役に立っている」のだろうか?そういえるのだろうか?それは、何かを「押しとどめる」役に立っている、という消極的な効果なのか。何かを「形作る」役に立っている、という積極的な効果なのか。
いや、この効率的な社会で、そのような非効率的な問いを抱えてしまった時点で、それは「役に立たない」ものと決まってしまっていたのではないのだろうか。


サイレントテロという「一人でできるテロリズム」に、私は既に身を投じている。
だが、もしかするとそのずっと以前から、私は、「一人でできるカルト宗教」に、この身を投じていたのかもしれない。
誰も救わない、誰も救えない、自分さえも生かさない、そんなものに。



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4 フランスのテロリズム研究書
5 本格的な入門書


*1:少なくとも彼らは、別の教団からの視点ででも「オウム」を見つめなおすべきだった、と思う。

*2:だがそれは、「教団の教義」とはまた違ったのであるが。