幸福と不幸の境界

今の社会におけるそれは、端的に「考えるか否か」によって分かたれているといっても過言ではない。


考えないことこそが幸福であり、考えることは不幸なのだ。
よって、一般的で、善良な、「普通の人間」は、自ら考えることを率先して放棄していく。
それに年齢の多寡など関係はない。
早く捨てれば捨てるほど、早く幸福に近づくのだ。
テレビという「時間と視野を限定したメディア」がそれを助長する。いや、源泉となっている。


だが、分かるまい。テレビを遊びにしている「普通の人間」には、この画面を通して出る偽善が!!
怒りと感動が同列に並置されている様が!






この奈良の「事件」にまつわる決定的な不幸をひとつあげるならば、それは、「年端も行かない児童が無残に殺されたこと」ではなく、「異常で残虐な人間が生まれていたこと」でもなく、「善悪の彼岸の存在について語ることのできる人間のいなかったこと」である。


「被害者の子はなんてかわいそうなんだろう。」と思う人間は、その事件から伝えられる「悲しみ」という感情に耽ってはいないだろうか?
「事件の報に触れるたびに新たな怒りがこみ上げてきます。」という人間は、その事件から伝えられる「怒り」という感情に耽ってはいないだろうか?
……それに酔ってはいないだろうか?
それらは結局のところ、自分とは直接の関係のないところで起こった出来事に対して、まるで責任を持たないままに自らを「正義」に位置づけ、そして、自らの幸福の証明としてはいないだろうか。
それは、江戸時代において「事件」を題材にした人形浄瑠璃を娯楽として消費していた行為となんら変わるものではない。
「悲劇の被害者」「憎むべき悪役」「可哀相な遺族」。
それらに対する「悲しみ」と「怒り」は、結局のところ、娯楽=エンターテイメントの域を出るものではない。


そしてはっきり言おう、それらは「偽善」であると。


真に「社会の問題」を注視し、それに対して思いをいたすような行為ではないということを。


……だが、


それは「幸福」である。