誰がためのアカデミズム

とある大学での「イマドキの学生」の授業風景。(卒論を書く人が落書きして遊ぶ場所経由)
いくら言ってもアカデミックな作法に準じようとしない学生に対して、ストイックにアカデミックな教授が熱い憤りを噴き出している。
……途中まで読んだけどさすがに飽きた。そして、笑うとかそういう気分になることは、なかった。


どうにも、このアカデミックな正義を背負った先生の方が、どこか「から回り」しているように感じたからだ。


もちろん、学生の側の社会常識的な態度の欠如もその憤りの根幹にあり、それもまた正しい指摘なのだろう。
が、特にこういった「底辺校」での学生生活というのは、学生にとって、いったいどのような意味を持つのだろうか。
いや、底辺校のみならず、トップブランド校以外の大学における学生生活――その中でのアカデミズムの獲得には、いったい何の意味があるのだろうか。
少なくとも、その意味を、その意義を、この正義を背負った教授は、はたして語ることが出来るのだろうか。


固定化し堆積したアカデミック・ヒエラルキー体制の中では、その中の「階層」に属すものだと目された大学でなければ、アカデミズムの範疇にそもそもカウントされないというのが偽らざる真実ではないのか。
その個人の資質において天才性を発揮し、そのアカデミック・ヒエラルキーの枠を飛び越えない限り、「階層」外の大学の学生は、はなから「階層」側に相手にされないというのが事実なのではないのか。
――「お前などアカデミズムに値しない」、と。*1


もちろん、そもそもアカデミズムに触れた人間が、すべてアカデミズムに同化できる枠があるわけではない。触れたもののの多くは、アカデミズム外の世界に――好むと好まざるとに関わらず――行くことになる。


が、
そもそも、各学制の中での学習は、実際のところ何を目的としてなされているだろうか。
小学校の学習は、中学校への進学のためである。
中学校の学習は、高等学校への進学のためである。
高等学校の学習は、大学への進学のためである。


――では、大学の学習は一体、「何のため」になっているのか。


卒業や就職と同時に「リセット」を強いられる大学での学習内容とはいったいなんなのだろうか。学生の内の少なくとも三分の一を占める人文系の場合は特に、である。
新卒であっても大学で身につけたことなど、はなから大学外では求められず、ましてや、「新卒でなければ人に非ず」、だ。
そして、曲がりなりにもアカデミックな作法を身につけた大学院生の多くが、卒業と同時に失業するより他にないという状況はいったいなんなのか。
あれほどまでに、その必要性を押し付けられた結果が、これほどまでの、その無用性の宣告を受けているという、この現実!


この社会にとって、アカデミズムとはいかほどの価値を持つものであるというのか。


誰のためのアカデミズムか。いったい誰のための!何のための!!


振り返ってみれば、「学生の側の社会常識的な態度の欠如」も、その原因の一つには、大学を頂点として連綿と続いてきた、ただ唯一の目的として大学の存在を掲げてきた、日本の学制システム――学習システムが挙げられるのではないのか。*2
「試験」にさえ通ればそれでよしとするような、ある種チェックシステム抜きのベルトコンベアーの存在を無視して、運ばれてきたものにその責めのすべてをぶつけるというのはあまりにも、
あまりにも、自らの「幸運」を自明視した、「非アカデミズム的」な態度ではないのか。*3
それこそ、エリートの傲慢というやつではないのか。


エリート主義、結構。
アカデミズム信者、結構。


だが、アカデミックポストを手にしただけで、自分の懐にどこかから自動的にお金がふって来るかのような、なにか歪んだ意識が、いまだ、まだまだこの国のアカデミズムにはびこっている気がしてならない。


誰がその金を払っているのか。
いかほどの社会的資源が費やされているのか。
そして、いかに驚くほどの資源が無駄にされているのか。


あれほどの高い金を支払う学生に対して、「自ら学ぶものにしか対価与えない」とそう言うのか。
あれほどの額の金を払った側に、その態度の自由を認めないと、そう言って恥じないというのか。
ならば、もっと基本的な支出を、教育にまつわる費用を、半額以下に抑えてしかるべきではないのか。
無駄に高額な支出を強いられ、無駄に多くの時間をかけさせられ、あげくのはてに放置、放任、自己責任か。


何のためのアカデミズムなのか。いったい誰のための!何のための!!




もはや、この国のアカデミズムこそが、サイレントテロの牙城であると言っても過言ではないのかもしれない。

*1:事実、そうなってしまう場合が多い。

*2:あくまで「一つ」の可能性の指摘ではあるのだが。

*3:――ベルトコンベアーの中で人格教育と学習教育を一身に担わされている、教師の不遇というものもあるのだが。